廃線前を訪ねて


かつて北海道の大地を駆け巡っていた、今は廃線となった国鉄ローカル線のありし日の姿。

©北川宣浩 2000
夕張線

 

廃線前を訪ねて

札沼線


線名:札沼線(さっしょう・せん)
区間:桑園(そうえん)-石狩沼田(いしかりぬまた) 111.4Km
全駅:[廃止された区間のみ]北海道医療大学-石狩金沢-本中小屋-中小屋-月ヶ岡-知来乙-石狩月形-豊ヶ岡-札比内-晩生内-札的-浦臼-鶴沼-於札内-南下徳富-下徳富-新十津川 - 石狩橋本-上徳富-北上徳富-雨龍-石狩追分-胃津-和-中ノ岱-碧水-北龍-五ヶ山-石狩沼田
開業:1931年10月10日 石狩沼田-中徳富
全通:1935年10月03日
廃止:1972年06月19日[新十津川-石狩沼田]
訪問:1980年03月09日
廃止:2020年05月07日(実質4月17日)[北海道医療大学-新十津川]
訪問:2017年06月25日(北海道医療大学-新十津川)

新十津川駅入場券

石狩沼田駅

札沼線は、札幌と石狩沼田を結んでいたのでその名がある。今では「学園都市線」の愛称がついている。札沼線は先端部分である新十津川~石狩沼田間が1972年に廃止された。
その後も札幌(分岐駅はひとつ西の桑園)と新十津川(しんとつかわ)を結んでおり、札幌のベッドタウンを結ぶ線として、また、学園都市を結ぶ線としてにぎわっていたが、"学園"に学生を輸送する以外の需要は少なかったようで、北海道医療大学~新十津川間も2020年に廃止になった。筆者は新十津川-石狩沼田間に乗っていない。
石狩沼田は留萠本線の駅であり、札沼線は行き止まりの盲腸線でなかったにもかかわらず、一部区間が廃止となって盲腸線になってしまった。路線が循環していたほうが遙かに便利だと思うのに、なぜかこうなった。
札沼線の歴史をひもとくと不遇の歴史である。地元の請願でようやく鉄道が開通したものの、戦時中に石狩月形-石狩追分間が休止になり、線路が供出されてしまったのだ。鉄を兵器に利用するためである。戦後1956年に全線復活したものの、再び1972年に新十津川-石狩沼田が廃止となり、今日に至っている。すぐ近くを函館本線が並行して走っており、道路も整備されていたのでさほどの価値が認められなかったからだろうか。

当時つきあっていたK子が札幌の親戚宅を拠点にしてスキーをするというので、筆者も立ち寄って札幌の観光を楽しんだ。筆者は札沼線を乗りつぶす目的があり、途中駅まで彼女もつきあったが、交換の列車に乗って彼女は札幌へ戻っていった。そして筆者は終着駅となっていた新十津川駅まで乗り通し、国鉄バスで石狩沼田まで抜けた。帰宅後しばらくしてから彼女とは別れた。いや、乗りつぶしを優先したためではない。

1999年、家族で札沼線の廃線部分を訪れた。翌2000年は辰年であり、辰にちなんだ駅で記念写真を撮って年賀状にしたかったからだ。営団地下鉄辰巳駅、海峡線竜飛海底駅などがあるが、筆者はすでになくなった雨龍駅を選んだ。雨竜町役場に連絡して雨龍駅の跡地を伺い、また町史のコピーまで送っていただいて、たいへんお世話になった。夕闇迫る田圃の中にようやく見つけた雨龍駅の跡地には、小さな墓碑が建っているだけだった。リンク集のタイトルにその写真を利用している。
正月早々わびしすぎたのだろうか、「もっと他の場所があるだろうに……」と、師匠から年賀状の返事が来た。

雨竜駅跡

JR北海道は、2016年に残っている先端部分である北海道医療大学~新十津川駅間をJR北海道だけで維持するのは困難と、廃止したい意向を示した。沿線自治体は当然のごとく廃止に反対したが、そもそもが誰も乗車していないのだから、私からすれば身から出た錆である。
浦臼~新十津川駅間の列車運行は1日1本と、新十津川駅にすれば始発列車が終列車の状態となり、鉄道マニアたちには"人気"となった。
そこで2017年6月25日に「大人の休日俱楽部会員パス」で東京から行ってきた。札幌駅前のホテルに泊まり、翌朝早朝から札沼線に乗った。

北海道医療大学駅
実質的な終着駅の北海道医療大学駅。この駅で学生が大量に降りて、車内は私一人になった。

中小屋駅
大部分の中間駅は貨車を改良したリサイクル駅舎になっている。それもかなり傷んでいた。中小屋駅。

中小屋駅
大きな駅舎のある石狩月形駅。月形町は刑務所の町として発展した。最近は花卉栽培を行っている。

新十津川駅
列車が新十津川駅に着くと、中年鉄っちゃんを主体に大勢が降りた。駅で待っている人たちもいた。

新十津川駅
新十津川駅駅名票。

新十津川駅
新十津川駅駅舎。木造のかわいい駅だ。新十津川町役場まで歩いてすぐで、函館本線滝川駅行きのバスが出ている。

札沼線北海道医療大学駅~新十津川駅間は2020年5月7日に廃止する予定でお別れ列車なども企画されていたが、このころは新型コロナウィルスが蔓延しており、お別れ列車を出そうものなら鉄道マニアが集まって感染リスクが高まる。政府が4月16日夜に緊急事態宣言を出したのを受けて、4月17日で運行を終えた。以降は全便運休となった。私は最終列車をインターネットのライブカメラで見ていたが、駅前に集まったのは200人程度だったという。
運休の告知は夜だったので、実質的な"最終列車"は東京・大阪から朝一の飛行機でも間に合わず、賢明な処置だった。

 

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