■クイズの草創期
クイズは新聞・雑誌・単行本やラジオ、最近ではコンピュータゲームでも接触できるが、一般に「クイズ」というとテレビ番組のクイズショーを思い浮かべる。
戦後、あらゆる文化がアメリカからやって来たとき、テレビのクイズショーも同時に輸入された。もちろんそれ以前に「なぞなぞ」や「判じ絵」などの広義のクイズはあったが、出題者と回答者、問題、そしてショーアップされた演出で「見学者=視聴者」をも魅了するクイズショーはアメリカならではのものであった。
わが国のテレビ放送は一九五三年に始まり、早くもこの年にNHKではパントマイムを見てその内容を当てる『ジェスチャー』や、順々にヒントを出していってある言葉を当てさせる『20の扉』を放送している。これらは日本のクイズ番組の元祖とされており、いずれもアメリカの番組を手本にしたと言われている。
■クイズの成長期
六〇年代に入り、東京オリンピックを契機にテレビは飛躍的に普及し、もはや特別な家電製品ではなくなった。そこで人気を帯びてきたのが、昨日までテレビを見ていたその人が今日はテレビに出演する、視聴者参加のクイズ番組である。
六三年に毎日テレビで始まった『アップダウンクイズ』は二〇年以上にも亘って視聴者参加のクイズ番組の代表としてクイズファンの目標となっていた。『クイズ・タイムショック(テレビ朝日)』『ベルトクイズQ&Q(TBS)』『クイズグランプリ(フジテレビ)』や、少し遅れて登場した『パネルクイズアタック25(朝日テレビ)』も七〇年代から八〇年なかばにかけて、クイズの黄金時代を築いた番組と言える。特に七七年に第一回が放送された『アメリカ横断ウルトラクイズ(日本テレビ)』は、アメリカを旅しながらクイズをする壮大な仕掛けと、勝ったら先へ行け負けたらその場で去る非情の演出に、クイズファンのみならず、多くの視聴者から熱狂的な支持を得た。
■クイズの変換期
しかし時代が成熟してくると共に、次々と出される問題に視聴者が淡々と答える形式は一部のクイズファンを除いては飽きられていった。そして先にあげた視聴者参加のクイズ番組のほとんどは姿を消し、かわって隆盛したのがおもしろい話題を素材とした問題に、タレントがこっけいに答える情報バラエティ型のクイズ番組である。
世界各国を取材した『なるほど!ザ・ワールド(フジテレビ)』や、毎回テーマを決めて深く掘り下げる『クイズ面白ゼミナール(NHK)』などがその代表で、作り手側は「情報をクイズという形にアレンジして、わかりやすくおもしろく視聴者に伝える……」という論理を掲げた。この傾向は九〇年代に入っても『クイズ世界はSHOWbyショーバイ(日本テレビ)』などに続いている。
もう一つ、パズルをテーマにしたと思える番組が増えてきたことである。もともとクイズとパズルの境目は明確ではなく、「知識で答えるのがクイズ」「思考で答えるのがパズル」とするのが通説だが、『マジカル頭脳パワー!!(日本テレビ)』や『たけし・逸見の平成教育委員会(フジテレビ)』などはむしろパズルに近いと思うのだが、いかがだろうか。
■クイズの深耕期
視聴者参加のクイズ番組が減ってきた中で、「特別な視聴者」を参加させるクイズ番組も注目を浴びてきた。各局のクイズ番組で優勝した「クイズ王」たちを一堂に集めて難問を出題する『史上最強のクイズ王決定戦(TBS)』『1億2000万人のクイズ王決定戦(フジテレビ)』がそれである。
かつてのクイズ番組の問題は、テレビを見ている人でもブツブツと答えを言える、中学一年生程度のレベルで作られていたという。番組と意志を共有して見られるのが、作り手の狙いだった。しかし、これらは常人ではとても答えられないレベルの問題を次々と答える「クイズ王」の個性や、難問そのものが番組の魅力であり、現にこれらの番組から排出されたクイズ王はハウトゥー本を出版するほどの人気と風格がある。
クイズに勝つには「広く浅く」知識を仕入れていればよかった時代から「広く深く」知識を得なければやっていけない時代になり、さらには特定のテーマについて「狭く深く」の知識の披瀝を見せ物にする『カルトQ(フジテレビ)』も登場した。
■視聴者の飢え
八〇年代なかばから視聴者が参加できるクイズ番組は減り、タレント同士の掛け合いを苦々しい思いをしながら見るに至った。学生たちは大学に「クイズ研究会」を作ったが、広くクイズファンがクイズの対戦をできる機会は年に何回もなく、ましてや社会人や地方に在住する者にとっては、その機会は極めて少ない状況であった。クイズ番組に何度か優勝した人たちも『クイズ王戦』ではよほどのことがない限り優勝はできず、現に優勝者は二~三人の持ち回りと言ったほうがふさわしかった。
視聴者参加のクイズ番組が減った反面、クイズは他のメディアでは人気を呼び、たとえばゲームセンターには反射型ゲームにまじってクイズゲームが幅を効かせているし、家庭のテレビゲーム用にも各種のクイズソフトが発売され、パズル雑誌やクロスワード雑誌も根強い人気を保持し、テレビ以外の場でクイズに接触できる機会が増えてきた。
■新しいクイズの場を求めて
さて、ここからは一人称の主語が多いのをお許しいただきたい。私は何度もクイズ番組に出場したし、何度か優勝もした。クイズを通じて友人も得たし、クイズの楽しさは充分に知っているつもりでいた。
私はクイズに出場しているときから「ただのクイズファン」にはなるつもりはなく、何か残したかった。これだけ楽しませてくれた「クイズ様」にお礼もしたかった。そこでクイズのハウトゥー本を書いた。三冊書いた。しかしすでにプレーヤーとしての能力は失ったし、問題にがむしゃらに答えていこうという情熱も褪せてきた。
だけど後進を指導するのはおこがましいとしても、後進に道を付けることはできないものだろうか。
■ネットワーク通信との出会い
八〇年代終わりより双方向性のあるネットワーク通信が社会的に認知され始めてきた。パソコン(ワープロでも可能)に通信ソフトを入れ、モデムを介して電話線とつなぎ、ホスト局にこちらから文章を送ったり、ホストに蓄積されている他人の文章を読んだりする「ニューメディア」である。クイズを通じて旧知であった道蔦岳史や他の友人から、ニフティサーブというネットワーク通信会社のことは聞かされていた。
そこで九〇年夏にニフティーサーブに加入した。道蔦や他の友人に「電子メール」をし、愛用しているワープロOASYSや趣味の鉄道の「フォーラム」を覗いてみた。
これには嵌まった。文通なら一~二週間かかる文章を使ったやりとりが、わずか半日でできる。フォーラムの「会議室」で質問をすれば見知らぬ誰かが返答してくれる。チャットと呼ばれるものはリアルタイムで何十人もの人たちと「文字を使った会話」ができる。データライブラリには文字による各種のデータや、フリーウェアと呼ばれる趣味で作られたパソコンソフトが登録されており、ダウンロードして自由に使うことができる……。こういうカタチのコミュニケーションがあったのかと、私はこれまで知ることのなかった深い感動をネットワーク通信から得ていた。
■クイズとネットワーク通信の融合
私は視聴者参加のクイズ番組が減少して以来、日常的にクイズをする場を設けられないかと模索していた。友人たち同士で金を出し合って早押し機を作ったこともあった。それなりに楽しめたが、結局は仲好しグループの遊びの域を出ない。
私の求めるクイズの場とは、かつてテレビで楽しんでいたような「毎日」「日本中の人と」「誰とでも」「同時に」「クイズで楽しめる」ものだった。ならばネットワーク通信はどうだろうか。毎日いつでもアクセス可能だ。日本全国にアクセスポイントという電話番号が網羅されており、大部分の人は市内電話の料金でアクセスできる。チャットを使えば同時会話が可能だし、そうでなくても打てば響く即応性がある。コミュニケーションメディアとしての素晴らしさは実感している……。行き着いたのはネットワーク通信だった。
そこで私は「クイズのフォーラムを作ろう」と道蔦に声をかけた。しかし通信の先輩である道蔦は、すでに一年以上も前に同様の企画を考え、ニフティに提示したと言う。けれどもそれには曖昧な返事しか貰えなかったそうだ。だが時期も異なっている。二人で相談してもう一度企画書にし、ニフティの中村明常務に電子メールした。
※クイズフォーラム設立趣意書
毎回ニフティーサーブをたいへん便利に利用させていただいております。
さて、新しいフォーラムが続々オープンしておりますが、まだ、本来あってしかるべきなのに、関連フォーラムすらないジャンルがあります。それは「クイズフォーラム」です。今回はニフティサーブのフォーラムに「クイズフォーラム」を設置していただき、ますます充実したネットになるようにとのお願いです。ぜひご検討のうえ、クイズフォーラムを設置されたくお願い申し上げます。--(原文ママ)
このあとは私たちのプロフィール、クイズの定義、そしてクイズがいかに人気があってニフティへも貢献するか、どんな会議室やデータライブラリ編成にするか、さらにはどうやって会員を募るかも考えて書いた。
中村常務からはすぐに返事がきた。ある会社と作る計画を進めているのでそこと相談してくれと。私たちは冬の夜、紹介された株式会社目玉企画に行った。この会社はクイズを作ったりニフティのイベントなども手がけている企画会社とのことだった。
パズルとクイズの定義、会議室の構成、会員に対するお願いなどの詳細を詰めたが、大部分は私が素案とした内容に収まった。フォーラム名は<クイズ&パズルフォーラム>と、「パズル」を加えた。そしてフォーラムを代表する「座長」とも言うべきシスオペには道蔦を推薦した。道蔦は新進のクイズ作家として実績をあげていたので、クイズの情報を道蔦に集約することは、彼のためにも日本のクイズ界のためにもなると思ったからである。しかし目玉企画の矢田真一がシスオペに、同社の山本恭仁彦と私たち二人がサブシスオペになり、この体制でスタートすることになったのだ。
■クイズ&パズルフォーラム誕生
九一年二月一五日、クイズ&パズルフォーラム(FQUIZ)がニフティサーブにオープンした。会議室はたちまち発言で埋まった。
五月には初めてオフラインを開いた。回線が繋がっているのがオンラインで、実際に顔を会わすのがオフライン、つまり宴会である。場所は吉田宏明が「クイズ割烹」と書込みした大田区の「鳥藤」で、一七名が集まった。飲み食いはそこそこにトリビアや自分が出場した番組のビデオなどで盛り上がった。八月にはウルトラクイズの前日に前夜祭オフを開いた。地方含め会員とその友人の五〇人が集まった。藤記拓也が作ったホンモノそっくりのウルトラハットの早押し機で盛り上がった。そして翌日のウルトラクイズには松本肇が補欠で予選を通過するオマケがつき、さらには成田空港ではジャンケン一発で負ける珍プレーを演じ、会議室を大きく沸かせてくれた。
その後仕事多忙の矢田が九一年一一月でシスオペを道蔦に譲り、新たに大坪晴美をサブシスに迎えた。この体制で今(九三年八月)も続いている。
大学のクイズ研よりFQUIZがちょっと控えめなところ、それはクイズの優勝者が少ないことだろうか。しかし九二年六月にはFQUIZに入会してクイズの実戦を始めた吉田宏明と森昌大のコンビが「100万円・クイズハンター」に優勝する快挙を遂げ、他にも優勝・準優勝などの好成績を修める会員が増えてきた。
■可能性は限りなく
私の夢であった「毎日、日本中の人と、誰とでも、同時に、クイズで楽しめる」すなわち時空を、そして人を越えたクイズコミュニケーションは、FQUIZで完全に実現されてしまった。会議室にはクイズやパズルに関する情報や意見が毎日書き込まれ、毎週水曜日を定例としたリアルタイムクイズ大会では、北海道から沖縄まで時には海外からのアクセスもあり、全国の人たち数十人と同時にクイズを楽しんでいる。これは「会報」レベルでは到底実現できない密度の濃いコミュニケーションである。それに大学のクイズ研のように上下関係やしがらみもなく、来る者は拒まず去る者は追わず、クイズ制作者も回答者も呉越同舟でクイズを楽しんでいるのは日本中にFQUIZだけだろう。
データライブラリは優秀なプログラマーの作品で充実している。桑原昭男が作った五者択一クイズソフト「ごたく」はセンスのいい問題が受け、ごたく用の自作問題も多数登録されてきた。宮越洋彰のリアルタイムで早押しができるソフト「リアルタイムでピーン」は、本来なら文字だけのリアルタイム会議画面に動くキャラクターが出て、早押しボタンに見立てたキーボードを押した者の順に早押しの札が立ち上がる。進藤欣也の「ノノグラムエディタ」は、画像を使ったパズルであるノノグラムを簡単に作れるソフトで、自作の問題を次々に会議室に発表する会員もいる。
まさしくFQUIZは時空を越えた。クイズをテーマとしたコミュニケーションとしては、人後にないものと自負している。
FQUIZが素晴らしく充実したのは道を作った人がいたからではない。道を歩いた人がいたからだ。その人たちが道端に花を植え、舗装をした。道は拡幅されますます人が行き交う。FQUIZの道は時空を越えて延び続けている。
@niftyのフォーラムはパソコン通信ユーザーの減少(インターネットユーザーの台頭)により大きく変わり、2005年4月でWEBに一本化された。FQUIZもWEBフォーラムになったが利用者は減少し、9月からは別サイトで@niftyを離れての運営となった。
今(2006年)、mixiを始めとするSNSが隆盛を極めている。@niftyのフォーラムがSNSの方向にいけなかったのを残念に思う。
いっぽうで、テレビや動画配信サイトなどで「クイズタレント」とも言うべき、クイズを専門とするタレントが輩出しており、この40年でクイズの世界も進化したなと感慨深い(2020年6月)。
FQUIZ.JP