かつて北海道の大地を駆け巡っていた、今は廃線となった国鉄ローカル線のありし日の姿。
我が家は踏切のそば
←家のそばの踏切は、2000年6月11日に上下線とも高架になって、廃止された。
←この2枚の写真を撮影してくれた父は、下の撮影5ヵ月後にこの世を去った。
筆者・北川宣浩は1954年の夏に、小田急線の踏切のすぐそばにある家に生まれた。
本人は記憶がないが、泣きやまないときは踏切に連れて行き、電車を見せると泣きやんだという。
しかし、それ以上の鉄道趣味はなかったようだ。母の実家は茨城県で毎年夏には帰省していたが、上野駅に煙を吐いて大きな音を立てて入線する黒い蒸気機関車を怖いと思ったくらいだ。しかも母は広い上野駅で毎回迷い、常に常磐線ホームに行けなかった。ある年は清掃人に乗り場を尋ね要を得ず、ある年は「この人に付いていこう」といいながらサラリーマンのあとを付いていくと、階段を上がって出口に出てしまった。
これは子供心に非常に心細かった。もはや上野駅で迷うことはないが、幼稚園から小学校低学年時のこの想い出がトラウマとなって、今でも上野駅は苦手である。
学生時代は自転車で全国へ
大学に入って、部活の勧誘ポスター「ヨーロッパを自転車で走ろう」に惹かれた筆者は自転車部に入った。筆者はこれまで体育会系とは全く無縁で、きつい練習に1年生の夏合宿では泣き言も出たが、ひとつの山を越えるとコツもわかってきて、以後、自転車で各地を走るようになった。自転車は身体で風を感じて人々の生活レベルで旅ができる素晴らしい乗り物で、ヨーロッパを走る夢は夢で終わったが、自転車は今でも楽しんでいる。
大学1年の夏合宿は福島県の猪苗代から青森県の黒石市までのサイクリングで、終わった後、秋田県の親戚宅へ行き、従弟と青函連絡船と鉄道で札幌に行ったのが、北海道と鉄道の最初の接点であった。
翌年、2年生の合宿の舞台は北海道そのものであり、輪行(自転車を分解して列車などで運ぶ)で浜頓別まで行き、宗谷岬や道東を訪れた。合宿中は駅を中継点として走っているので、当時各駅に設置されていた国鉄キャンペーンのDISCOVER JAPANスタンプを押しまくった。
種村直樹氏との出会い
こうして鉄道や旅行に関心を持つようになり、旅行雑誌などに記事を書いているレイルウェイ・ライターの種村直樹氏の著作が気に入り、氏に手紙を書いたのをきっかけとして、氏に師事することになった。
毎週、氏の事務所にアルバイトへ行き、資料整理などを手伝い、時にはいっしょに旅行をして鉄道趣味のノウハウをまのあたりに見て大いに啓蒙された。「鉄道旅行術」にはイラストを採用していただき、その後、氏の専属似顔絵描きのような立場でいくつもの著作に絵を描かせて貰った。また、氏の許に集う同じ趣味の同じような年齢の友人と親しくなり、互いに切磋琢磨してさらに鉄道趣味に拍車をかけた。
旅客営業規則の盲点を突くような切符を合法的に安く買う方法などを編み出し、実行しては悦に入った。
乗りつぶしに挑戦
鉄道趣味は多種多様だが、筆者が好きだったのは「乗りつぶし」と「時刻表」で、いずれすべての国鉄路線に乗ってしまおうと、時刻表をひっくりかえしては乗り方を研究した。なにしろ、朝と夕方の1日数本しか走っていないローカル線も多く、1便逃せば次は数時間後という接続も珍しくなく、効率的な旅程を作るのはパズルのようなおもしろさがあって時刻表を「愛読」した。
「乗りつぶし」の最初のきっかけは、北海道のどこかのユースホステルの壁に貼ってあった「北海道終着駅ラリー」という遊びである。北海道の地図に、盲腸線の終着駅の入場券がいくつも貼ってあった手作りのポスターは、北海道の鉄道そのものが「秘境」であり、「冒険」であることを教えてくれた。いつか北海道の終着駅をすべて回ってやろうと誓ったのだった。
1970年代の後半から「ローカル線廃止」の声が聞こえるようになり、廃止対象となった「特定地方交通線」に早く乗らなければと、積極的に「乗りつぶし」の旅に出かけた。
特に北海道は廃止対象の路線が多く、ワイド周遊券を活用して集中的に回った。レンタカーを借りて駅を巡ったこともあった。
ただし、今となって悔やまれるのは、車両の趣味はなかったものだから駅舎を含めてあまり写真を撮っていなかったこと。単に乗ること=旅行だけを趣味としていたので、体系的な鉄道史のような知識がなく、このホームページを作る段になって往時の写真などを集めたが、若造の単なる旅行のスナップ写真であり、第三者の鑑賞に堪えられるような資料性のある写真は皆無である。
---ちなみに筆者は高校時代写真部の部長をしており、カメラの腕には自信があるほうなのだが、ご覧のレベルである。写真趣味についてはこちらをご覧ください。
結婚・国鉄全線完乗・生活の変化
そうこうしているうちに結婚し、新婚旅行の宮崎県の日豊本線北川駅で国鉄全線を完乗してしまった。
今の夢
もし巨億の富があるなら、「美幸鉄道株式会社」を設立し、美深から歌登を経て北見枝幸に至り、さらに浜頓別から稚内へ出る鉄道を敷設し経営するのが夢である。儲かるわけはないが、模型の列車の現物版として1日10便程度を運行し、地元と観光客と鉄道ファンへ還元したい。さらにビル・ゲイツのような巨兆の富があるなら、根室から厚床、そこから旧標津線を通って中標津から知床斜里に線路を敷き、網走を経て湧網線から名寄本線、興浜南線と北線をつないで浜頓別から天北線を経由して稚内へ至る、「オホーツク鉄道」を走らせてみたい。
「廃線前を訪ねて」を作るにあたって
本コンテンツは「廃線跡巡り」を定着させた、宮脇俊三氏編著による「鉄道廃線跡を歩く(JTBキャンブックス)」に敬意を表する。
「廃線跡巡り」のホームページは多くの力作があり、リンク集でも紹介させていただいている。筆者も廃線跡を巡るのは好きである。が、廃線前の姿を伝えるホームページが少ないのに気づいた。若い作者は廃線が相次いだ時代にまだ年少だったろうし、廃線になるなど考えもせずそれ以前より利用していた世代は、ホームページを作るには年老いた。そこで「つなぎの世代」である筆者が、失われた鉄路の現役時代、つまり廃線前の姿を後世に伝えるのを使命として作り上げた。言い換えれば、筆者の鉄道趣味の墓碑銘なのかもしれない。
もとより、専門家やより熱心なファンに叶うわけはなく、不備や間違いも多々あるだろうから、ご教示いただきたい。当面は北海道に絞るが、いずれは他地区にも拡げていけたらと思う。
2000年秋、このコンテンツのこともあって富内線、士幌線、胆振線跡を訪ねたが、もはや「廃線跡の跡」を知ることすら難しくなっていた。廃線跡巡りは90年代で終わってしまった趣味なのかもしれない。
2003年2月26日、宮脇俊三氏が永久(とわ)の旅に出かけられた。享年76歳。訃報が報じられたのは3月3日である。かつて、種村直樹氏とともに会食をしたのを思い出される。飄々とした風貌と語り口、隅々まで練り上げられた著作にもう出会えないのかと思うと残念でならない。
氏の著作の一節、「何かと不満のある人は夕張線に乗るとよい」
この言葉の真意を探りに、夕張に行かなくてはならない。
2014年11月6日、師匠の種村直樹氏があちらの世界に旅に出かけられた。享年77歳。氏の著書は100冊を越えるが、ハウツーものの代表格「鉄道旅行術」、ローカル線のルポ「ローカル線の旅」「気まぐれ列車シリーズ」と、いずれも大きな影響を受けた。今も旅が好きで、複雑怪奇な旅程を立てて楽しめるのは氏の教えに他ならない。
どうもありがとうございました。これからも悔いのないように旅を楽しみます。
合掌。
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