名人が教える150のノウハウ
■東名開通がヒントに
アメリカ横断ウルトラクイズの人気はあいかわらず凄いようです。特に中高校生は熱心に見ているようで、番組や出場者宛にファンレターも数多く来るそうです。
さて、この超ユニークなクイズ番組は、そもそもどのようにして生まれたのでしょうか。
放送レポート誌によると、この企画はなんと東名高速道路開通がヒントだったそうです。それまでクイズはスタジオでするものでしたが、おのずと限界があり、外に出てやるおもしろいクイズ番組の登場が待ち望まれていたのです。そこで挑戦者をクルマに乗せて、各インターチェンジでクイズをやりながら先へ先へと行く。負けた人はそこで降りてもらう。静岡なら森の石松の恰好をした男がでてきてクイズを出し、浜松だったらウナギ、名古屋だったらウイロウやシャチホコの問題といったように、行った土地の観光案内を兼ねるクイズ番組を作ろうと。
この東名高速クイズは結局実現しませんでしたが、76年、アメリカ建国二百年記念の年の始め、これにちなんだ企画を練っていた矢先、かつての東名高速クイズが再び浮かんできたのです。
東名をアメリカにすることによって、現在のものとほぼ同じスタイルの企画ができました。すなわち、羽田に向かうバスの中で何人かが落ち、飛行機の中でも落とす。そしてハワイ、ニューヨークと渡り、7月4日のアメリカ建国二百年記念日にワシントンのホワイトハウスの前で決勝戦をする。この模様は衛星生中継でやる。しかし、7月4日決勝では準備期間があまりになく、結局この年は見送り、翌77年に実現となりました。
また、このころパンナムが世界一周便を就航させました。これを使ったクイズにするつもりだった、という話も聞いたことがあります。挑戦者をこの世界一周便に乗せ、立ち寄った土地では1泊。しかし休むヒマもなくクイズを開始。寝ていようが風呂に入っていようがマイクを突き出し、クイズをする。できなかったものはおいてきぼり。できた者のみ次の世界一周便で次の土地へ行く……。第8回のサイパン・ココス島での深夜のクイズを見た時、この企画が活きたのかな、と思いました。
さて、1年間の準備期間を置いたウルトラクイズですが、実現までにはいくつもの問題点がありました。第一に、賞金も賞品もないクイズに人が集まるだろうか、仮に集まったとしても、落とされた人が暴動を起こさないかという不安。暴動対策は真剣に協議されたそうです。次に2~3週間ものロケに必要な長期の休暇を、学生以外の人がとれるのだろうかという疑問。第三は罰ゲームなどのジョークを日本人に理解されるだろうかということ。第四は30人にもおよぶ制作スタッフをどうやって揃えるかということ。第五は、航空会社の協力が果たして得られるかということなどなどでした。
スタッフはプロデューサー曰く「現在日本で考えられる最高のスタッフ」が揃いました。ロケ地である観光名所・遊園地は、一般観光客に対する細かい配慮をした上で撮影許可が降りるので、保証金が必要な所も多くありました。しかもロケ地は、周辺状況、日照、交通の便、ホテルからの距離、電源の有無、雨天時の避難場所などをすべて調べた上で決定しなければなりませんでした。また、旅客機の国際線は搭乗2時間前までにチェックインが必要ですが、直前までジャンケンやらなにやらの予選をしているため、その時間内のチェックインは無理。離陸ギリギリまで遅れることを航空会社や旅行代理店が認めてくれるか。航空券やホテルの予約をするにも、いつ誰が落ちるかわからないので、どういう名前で予約を入れるか。さらに、一般の乗客がいる機内で撮影もするが、食事のサービスや乗務員の仕事の合間をぬって撮影が可能かどうか。クイズに使う小道具や撮影機材などは百個以上にもなるが、それらを壊さずに各地を転々とできるか……。通常のクイズやロケではとても考えられない多くの難問を一つ一つ解決していき、77年10月、第1回アメリカ横断ウルトラクイズは放送されるに至ったのです。
一方、視聴者側からみても、当時ウルトラクイズを知る人は当然ありませんでしたが、それでも新聞告知などで聞きつけた約四百人が後楽園に集合。いまでこそグラウンドを大勢が走りまわる○×クイズも、こじんまりと観客席に座って行われました。そこを通過した80人が羽田空港でジャンケンをし、グァムへ。さらにアメリカ各地でクイズや罰ゲームを繰り広げ、ニューヨークで決勝、そしてラスベガスの土地が優勝賞品という結末。このスケールの大きさには多くの人々がビックリし、かつ感動しました。