名人が教える150のノウハウ
クイズについてのさまざまな話題をおとどけする前に、ぼくのクイズ歴を披露しましょう。優勝は7回。この数字はクイズマニアの中で決して多いほうではありませんが、少ないほうでもないでしょう。いわば、酸いも甘いも知っているというところでしょうか。だから、これからクイズを始める人にとっては、きっといいお手本になることと思います。
小学校へ通っているころから、好奇心や探究心が強く、学習雑誌に「算数なんでも事典」とか「理科おもしろ読本」といった付録がつけば暗記するほど読む子供でした。だからいろいろなことを知っていたし、なぞなぞやクイズも好きでした。
TVクイズに出てみようと思ったのは大学時代です。そもそもの動機は旅行が好きだったので、タダで海外旅行をしようという安易な発想からでした。
そこで、76年の4月、学生の出場が多く、しかも毎日見ていたクイズグランプリ(フジテレビ・終了)にハガキを出してみました。しかし、返事はなかなか来ませんでした。ところがハガキを出したのも忘れていた8月、フジテレビから予選通知が来たのです。ただハガキが来ただけなのにものすごくうれしく、同時に大変な興奮も覚えました。テレビに出る人は神様のように思えていた時代だったのです。
予選も難なく通過。9月が初出場でした。そこで3日勝ち抜けば優勝のところ、3日目で惨敗してしまいました。初出場にしてはよくできた方でしたが、大学の友人たちは冗談半分でバカにしたのです。それでぼくは奮起しました。今度は海外旅行なんて目もくれず、クイズそのものに勝ってやろうと。明けて77年の2月にパネルクイズアタック25に挑戦しました。勝負どころのアタックチャンスでミスをしましたが、20枚のパネルを獲得して初優勝。優勝の瞬間はいまでもよく覚えています。割れんばかりの拍手なのに、その音さえも聞こえないくらいの感動でした。
4月には念願の海外旅行にも行け、クイズ好きの人とも知り合いになれ、たちまちクイズのとりこになってしまいました。こうなるとクイズをすることが楽しくってしょうがなくなり、77年の10月、再びクイズグランプリに挑戦しました。あわや優勝というとき、最後の1問で逆転負け。これが浮き沈みクイズ人生の始まりです。その後勝ち負けを繰り返す悪いクセが付いてしまいました。しかし、クイズ番組に出ることにも慣れてきたので、もうタダでは引き下がりません。出場者の中のかわいい女の子をカクトクしました。
さて、ますますクイズに熱中してきたぼくは、11月に「クイズ荒らしになりたい!」という触れ込みでクイズタイムショックに出場。見事5週勝ち抜き百万円を獲得し、あこがれのクイズ荒らしに、仲間入りをさせていただきました。
しかし、翌年早々のアップダウンクイズでは9問でアウト。絶対の自信があったため、録画前から「優勝するから見て」と言い触らし、恥をかきました。でも夏にはクイズハッピーチャンス(テレビ神奈川・終了)で優勝。この番組は相手の女の子を指名して、双方共クイズができればペアでグァムへ行ける仕組でしたが、録画後、女の子は旅行の確認書を貰ったらさっさと帰ってしまい、あっけにとられました。海外旅行を蹴る余裕もついてきたのか、結局グァムへは行きませんでした。
すでに大学を卒業し、一部上場の建設会社に見習い現場監督として勤めていましたが、この仕事はあまりに性格にあわず、退社することばかり考えていました。そんな中、78年9月2日土曜日、第2回アメリカ横断ウルトラクイズの後楽園予選に通ってしまったのです。出場してアメリカへ渡るなら3週間もの休暇が必要で、もとよりそんなに休める会社ではなく、さんざん考えたあげくに翌週9日の土曜日、ぼくは会社を去りました。「一度しかない人生なんだ。好きなことをしなさい---」いつも苦虫を噛み潰したような顔をしていた現場所長が、はじめてやさしい顔をして、そう言ってくれました。ぼくは人生のすべてをウルトラクイズに賭けました。その日は成田空港に集合する日だったのです。
翌10日のジャンケン、機内ペーパークイズと順調に勝ち進み、ほとんどのチェックポイントをトップで通過。「一番難しいクイズ番組」との想像ははずれ、後半に行くにつれ簡単でした。そしてニューヨークで優勝。夢にまでみたウルトラクイズで勝てたなんて、最高の最高で、まさしく天下を取った気分でした。
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