アメリカ横断ウルトラクイズ
クイズ王の本

歴代クイズ王が語るウルトラクイズ必勝法
「知力・体力・時の運」次のクイズ王はあなた!かも、しれない?

クイズ王の会/篇
©北川宣浩・森田敬和 1987
パンナムビルニューヨーク

スタッフが語る、ウルトラクイズ秘話

ウルトラクイズはどのようにして生まれたのだろうか。スタッフにはどのような苦労があるのだろうか。まだ、誰も知らないウルトラクイズの誕生秘話と、放送では知ることのできないスタッフの苦労話を、クイズ王が取材してまとめてみた。
ご協力いただいたスタッフの皆様、ありがとうございました。

ウルトラクイズ誕生

 第1回ウルトラクイズがお茶の間に登場したのは1977年10月のことでした。当時のクイズ番組は、パネルクイズアタック25、アップダウンクイズ、メロディアタック・ドレミファドン!、クイズ!タッグマッチ、ベルトクイズQ&Q、クイズグランプリ、ピラミッドクイズ、クイズタイムショック、ゲーム・ホントにホント?などなど。視聴者参加の知識クイズが全盛でした。クイズマニアと呼ばれる人種の活躍も目立っており、新聞や雑誌などにも誰々さんは優勝何回賞金総額ン百万円といった特集記事がよくありました。いわば、戦後何回目かのクイズブームを迎えているころでした。

 ウルトラクイズのルーツはそれ以前にさかのぼります。東名高速道路が開通したころと言いますから1969年ごろのことです。ある番組制作会社が東名高速道路クイズという番組を企画しました。挑戦者をクルマに乗せ、各インターチェンジでクイズをやりながら先へ先へと行く。インターでは土地にちなんだ問題が出題され、正解者は先へ進み、負けた人はそこで降りてもらう。このような沿線の観光を兼ねた番組が企画されたのです。放送局に提示されたものの、時機が熟していなかったため、結局日の目を見ることはありませんでした。

 長い間この案は忘れ去られていました。でもアメリカ建国200年にあたった1976年、それにからめた番組企画としてそのアイデアが活かされ「史上最大ジャンボクイズ」として日本テレビに提出されたのです。現在のものとほぼ同じ内容で、羽田空港に向かうバスの中で何人か落ち、飛行機のなかでも落とす。ハワイ、ニューヨークと渡り、建国記念日の7月4日、ホワイトハウス前で決勝戦をし、それを衛星生中継でやろうとまで決まっていました。けれど準備期間が余りに短くその年はボツになりました。

 同じ1976年、別の番組制作会社であるテレビマンユニオンが「夢と冒険・アメリカ大横断」という番組を制作しました。コカコーラがスポンサーになっていたのでアメリカが舞台となったのですが、この番組はいろいろな経歴を持った老若男女7人の日本人が、キャンピングカーに乗って7つの謎を解きながらアメリカを横断する番組でした。

 テレビマンユニオンはこの番組制作を通じて、グループ海外移動撮影のノウハウを学びました。そして前の企画とドッキングさせて、翌77年「史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ」となって実現したのです。

スタッフのキャスティング

 当時としては珍しい海外VTRロケに加え、毎日のように移動を繰り返すロケのため、プロデューサーは海外ロケへ行くスタッフの人選に非常に苦労しました。その内訳は演出スタッフ、カメラマンや音声、VTRなどの技術スタッフ、美術スタッフ、放送作家、現地コーディネーター、ツアーコンダクター、医師、司会者。さらには宿泊や旅費管理の総務担当、全体の進行管理担当、そして審査委員長など、30名近いプロフェッショナル軍団になりました。結果的に「考えられる最高のスタッフ」が集まり、当然ギャラが高いので人件費がかかるのですが、制作費の用意をしてくれました。放送終了後、企画スタッフが他の放送局の人から「どうしてうちの局にこの企画を売ってくれなかったのか」と問われたそうです。しかし、この番組はどの放送局でも構わないという番組ではなく、日本テレビの性格ならではの番組なので、日本テレビにしか売りませんでした。なるほど、ウルトラクイズは開局記念番組にピラミッドを作ってしまった日本テレビならではの番組でしょう。

オーディション不要の人間ドキュメントに

 演出スタッフが制作にあたって考えたことは、まず参加者のオーディションをしないことでした。普通のクイズ番組はペーパークイズや面接を行って、ある程度クイズのできる人や明るい外向的な人を選んで出場させているのですが、ウルトラクイズは年齢とパスポートの条件さえ備わっていれば、誰でも参加できるようにしました。なぜなら、ウルトラクイズは単なるクイズ番組でなく、人間ドキュメンタリーにしたかったから。それにこの番組は、知っているやつが偉いんだという従来のクイズ番組に対抗する気持ちも強くて、知識だけではどうにもならない、ハードな部分を強調しました。挑戦していくことによって自分がどう変わっていくか、厳しさを一つ一つ克服していく生身の人間の息づかいはなにか、それをドキュメントしたいとスタッフは考えていましたから、オーディションは不要だったのです。

 次に、クイズのルールは単純に、ということでした。単発のスペシャル番組なのですから、ルールの説明に時間を費やすわけにはいきません。そのため第1回では○×、三択、早押しと、三大クイズルールしか行われていません。しかしこの考えはその後変わってきており、今ではウルトラクイズならではのクイズ方法も少なくありませんね。

 そして、規模の大きい番組ですから失敗は許されない。企画はいいけどつまらないね、と言われないよう、細かい部分にも気を配ったそうです。

ロケ地選定の苦心

 ロケ地選定にあたっては、当初アメリカ商務省観光局の協力をあおぎました。ロケ地は単に有名観光地ならいいわけではありません。ロケハンをするにあたってスタッフは、次のような項目までチェックしなければなりませんでした。つまり、大型飛行機が発着できるか、周辺状況、方角、交通の便、ホテルからの距離、水や食事の施設、電源の有無、雨天の避難場所、電波障害の有無などなど。国立公園や遊園地の中で日本のテレビ局が撮影するのは、当時としては想像を絶することで「なんでそんなことをするのか」となかなか理解してもらえなかったとか。一般観光客への保険など細かい配慮を条件として、第2回のナイアガラでは3500ドル、第3回のグランドキャニオンでは7000ドルの保証金を積んでようやく撮影許可をもらいました。

 それから奇人変人などのゲストを呼ぶにあたっては、他局の番組と出演が重ならないか、撮影場所に連れて来られるか、スケジュールは大丈夫か、本番までに挑戦者に見つからないかなど、これまた苦労のしどおしでした。さらにゲストについては当日にならないと出演が決まらない人もいて、当日その場で問題を作るという綱渡りもあったようです。

 ロケ地について面白い話を聞かせてもらいました。一時、アメリカコースとヨーロッパコースの2つのコースを用意して、アメリカは日本テレビ、ヨーロッパはTBSが並行中継、最後の決勝は両局で同時中継するという案がありました。これはTBS側がのらなくてボツになりましたが、実現していたらどうなっていたでしょう。でもこのアイデアは、第10回の北米コースと南米コースに活かされていますね。

 

 

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