シャーロック・ホームズ:新訳リブート

Sherlock Holmes: Rebooted Classics

— 現代の日本語でよみがえるホームズの物語 —

バスカヴィル家の犬

The Hound of the Baskervilles

―闇に吠える呪いの血統―

バスカヴィル家の犬タイトル


●あらすじ
イングランド南西部・デヴォンシャーの荒野で、名門バスカヴィル家の当主チャールズ卿が謎の死を遂げる。現場には“巨大な犬の足跡”が残され、家に伝わる「呪いの魔犬」の伝説が再び囁かれ始めた。そんな中、後継者としてカナダから呼び戻されたのが若きヘンリー・バスカヴィル卿。だが彼の周囲でも、不可解な出来事が次々と起こり、身の危険を感じた友人モーティマー医師は、ロンドンの名探偵シャーロック・ホームズとワトソンに調査を依頼する。
ヘンリー卿の護衛としてワトソンはダートムアへ同行し、広大な荒野で奇妙な住人たちと出会う。昆虫学者ステープルトンと、その“妹”と名乗る美しい女性ベリル。寡黙な執事バリモア夫妻。荒野に潜む脱獄囚の噂。そして夜ごと聞こえる、不気味な遠吠え――。
霧深い荒野で、伝説はただの迷信なのか、それとも本当に“何か”が潜んでいるのか。ヘンリー卿を守りながら、ワトソンは次第にこの地に渦巻く秘密と人間関係の複雑さに気づいていく。
やがてホームズは、ロンドンから密かに動き始め、バスカヴィル家にまつわる“ある真実”へと迫っていくのだった。
1901年発行。

●主な登場人物
- シャーロック・ホームズ:名探偵。鋭い観察力と推理でバスカヴィル家の呪いの真相に迫る。
- ジョン・ワトソン:ホームズの相棒で語り手。ヘンリー卿の護衛として荒野に滞在する。
- ヘンリー・バスカヴィル卿:バスカヴィル家の若き後継者。伯父チャールズ卿の死後、命を狙われる。
- チャールズ・バスカヴィル卿:前当主。荒野で謎の死を遂げ、事件の発端となる。
- ステープルトン:昆虫学者を名乗る男。美しい妹と暮らしている。
- ベリル・ステープルトン:ステープルトンの妹と称する。ヘンリー卿が心を寄せる。
- モーティマー医師:チャールズ卿の主治医で友人。事件をホームズに依頼する。
- バリモア:バスカヴィル館の執事。夜になると屋敷の外を気にしており、ヘンリー卿にいとまごいをする。
- バリモア夫人:執事の妻。弟がいて事件を複雑にする一因となる。
- セルデン:脱獄囚。荒野で悲劇的な最期を迎える。
- フランクランド:ラフター館に住む老人で望遠鏡で荒野を観察している。
- ローラ・ライオンズ:フランクランド老人の娘。離婚問題を抱える。


親愛なるロビンソン様
この物語は、あなたが西部イングランドの伝説を語ってくれたことに着想を得ています。そのこと、そして細部の解明にご協力いただいたことに、心より感謝申し上げます。
敬具
A. コナン・ドイル

第1章 シャーロック・ホームズ君

 シャーロック・ホームズという男は、徹夜明けでもないかぎり、たいてい朝はとんでもなく遅い。ところがその日は珍しく、彼はちゃんと朝食の席についていた。僕は暖炉の前の敷物の上に立ち、昨夜、訪問者が置き忘れていった杖を拾い上げた。太くて立派な木の杖で、先端は丸く膨らんでいる。“ペナン・ロイヤー”と呼ばれる種類のものだ。頭のすぐ下には幅一インチほどの銀の帯が巻かれ、そこには「ジェームズ・モーティマー氏へ M.R.C.S. C.C.H.の友人より」と刻まれ、さらに「1884」と日付が添えられていた。昔気質の開業医が持ち歩いていそうな、威厳があって、どっしりしていて、どこか安心感のある杖だった。

「で、ワトソン。君はこれをどう見る?」

 ホームズは僕に背を向けて座っていたし、僕が杖を手に取ったことを知らせてもいなかった。

「……どうして僕が何してるかわかったんだ? まさか後頭部にも目があるんじゃないだろうね」

「いや、目の前に磨き上げられた銀のコーヒーポットがあってね」と彼は言った。「それよりワトソン、この訪問者の杖をどう見る? せっかく来てくれたのに会えず、用件もわからない以上、この“置き土産”は重要な手がかりになる。君の観察で、この持ち主を再構成してみてくれないか」

「そうだな……」僕はできるかぎり彼のやり方を真似しながら言った。「モーティマー医師は、成功している年配の医者だと思うよ。彼をよく知る人たちが、敬意を込めて贈ったものだろうし」

「いいね」とホームズ。「実にいい」

「それから、たぶん田舎の開業医じゃないかな。往診のほとんどを徒歩でこなしているタイプだ」

「どうしてそう思う?」

「この杖、本来はかなり上等なものだったはずなのに、ここまで傷んでいる。都会の医者がこんな杖を持ち歩くとは思えないよ。先端の鉄の石突きなんて、すり減って丸くなってる。相当歩き回った証拠だ」

「まったくその通りだよ」とホームズ。

「それに“C.C.H.の友人たち”って刻まれてるだろう。たぶん地元の狩猟クラブ(Hunt Club)か何かだ。彼はそのメンバーに外科的な手助けをしたことがあって、そのお礼に贈られたんじゃないかな」

「ワトソン、今日は冴えてるじゃないか」ホームズは椅子を引いて立ち上がり、煙草に火をつけた。「君は僕のささやかな功績を記事にしてくれているが、いつも自分の能力を控えめに書きすぎている。君自身が光を放つタイプじゃないかもしれないが、光を導く才能がある。天才じゃなくても、天才を刺激する力を持つ人間というのはいるものだ。正直に言うとね、僕は君にずいぶん助けられているよ」

 彼がここまで言ってくれたのは初めてだった。僕は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。彼が僕の賞賛に無関心だったり、僕が彼の手法を世に広めようとした努力を軽く流したりするたび、少し寂しい気持ちになっていたのだ。だからこそ、彼の言葉は嬉しかったし、僕が彼のやり方をここまで理解し、応用できたことを誇りにも思った。

 ホームズは僕の手から杖を受け取り、しばらく裸眼でじっと観察した。やがて興味深そうに煙草を灰皿に置き、杖を窓辺へ持っていくと、凸レンズを取り出してもう一度じっくりと眺め始めた。

杖を見る


 「面白いね。まあ初歩的ではあるけれど」
 ホームズはそう言いながら、いつものソファの定位置に戻って腰を落ち着けた。「杖には確かに一つ二つ、示唆するものがある。いくつか推理を組み立てるには十分だよ」

「僕が見落としてることってあるのかい?」
 僕はちょっと得意げに言った。「重要な点を見逃してないといいんだけど」

「残念ながらね、ワトソン。君の結論の大半は間違っているよ。君が僕を刺激する、と言ったのはね、率直に言えば、君の誤りを見つけることで、かえって真実に近づけることがある、という意味なんだ。ただし、今回は全部が全部間違いというわけじゃない。彼が田舎の開業医で、よく歩き回る人間だという点は正しい」

「じゃあ僕の推理は当たってたってことだね」

「その範囲ではね」

「でも、それだけか」

「いやいや、ワトソン。それだけじゃない。例えばだが、医者への贈り物というのは、狩猟クラブよりも病院から贈られる方が自然だろう? そして“C.C.”という頭文字が病院名の前に付くなら、“チャリング・クロス(Charing Cross)”という地名が真っ先に浮かぶ」

「なるほど、そうかもしれない」

「可能性としては十分高い。そしてこれを仮説として採用すれば、この未知の訪問者を再構成するための新しい土台ができる」

「じゃあ、“C.C.H.”が“チャリング・クロス病院(Hospital)”だと仮定した場合、さらに何が推測できる?」

「何も思いつかないかい? 僕のやり方は知ってるだろう。応用してごらん」

「思いつくのは……その男が田舎に行く前は、都会で働いていたってことくらいだ」

「もう少し踏み込めるよ。こう考えてみたまえ。いつ、そんな贈り物がされる可能性が一番高い? 仲間たちが好意を形にして贈るとしたら、どんな時だ? 明らかに、モーティマー医師が病院勤めを辞めて、自分の開業を始める時だろう。贈り物があったことはわかっている。都会の病院から田舎の開業へ移ったことも推測できる。なら、その“移行の時”に贈られたと考えるのは、推理として無理があるかな?」

「いや、十分あり得ると思うよ」

「それにね、彼が病院の正式な職員だったとは考えにくい。ロンドンでしっかり地位を築いた医者じゃないと、そんな役職には就けないし、そういう人間が田舎に流れることはまずない。じゃあ彼は何者だった? 病院にいたがスタッフではない……となれば、研修医か住み込みの緊急対応医、つまり上級学生みたいな立場だ。そして彼は五年前に病院を離れている――杖に刻まれた日付がそう示している。つまり君の言う“厳格で中年の家庭医”は霧散して、代わりに三十前の若い男が浮かび上がる。人当たりがよくて、野心は控えめで、ちょっとぼんやりしたところがあって、そしてお気に入りの犬を飼っている。犬は……そうだね、テリアより大きくて、マスティフよりは小さいくらいだ」

 ホームズがソファに身を預け、天井に向かってゆらゆらと煙の輪を吹き上げるのを見ながら、僕は思わず笑ってしまった。

「犬の部分は、僕には確かめようがないけどね」と僕は言った。「でも、年齢や経歴については調べればすぐわかるだろう」
 僕は小さな医学書棚から『医師名鑑』を取り出し、モーティマーの名を探した。モーティマーは何人かいたが、訪問者と思しき人物は一人だけだった。僕はその記録を読み上げた。

「ジェームズ・モーティマー、M.R.C.S.(英国王立外科医師会)、1882年。デヴォン州ダートムア、グリムペン在住。1882年から1884年までチャリング・クロス病院の研修医。比較病理学におけるジャクソン賞受賞。論文『病気とは先祖返りなのか?』。スウェーデン病理学会通信会員。著書『先祖返りの奇妙な例』(ランセット誌、1882年)。『我々は進歩しているのか?』(心理学ジャーナル、1883年3月)。グリムペン、ソーズリー、ハイ・バロウ各教区の医療担当官」

「地元の狩猟クラブの記述はないね、ワトソン君」
 ホームズはいたずらっぽく笑った。「でも田舎医だという君の指摘は鋭かった。僕の推理も、これで十分裏付けられたと思うよ。形容については……確か“人当たりがよくて、野心がなくて、ぼんやりしている”と言ったね。僕の経験では、この世で推薦状をもらえるのは人当たりのいい男だけだし、ロンドンのキャリアを捨てて田舎に行くのは野心のない男だけだ。そして一時間も待たされた挙げ句、名刺じゃなく杖を置いていくのは、ぼんやりした男だけだ」

「じゃあ、犬は?」

「主人の後ろを歩く時に、この杖をくわえる癖があるんだよ。重い杖だから、犬は真ん中をしっかり噛んで運ぶ。その歯形がはっきり残っている。歯形の間隔を見ると、テリアには広すぎるし、マスティフには狭すぎる。つまり……ああ、これは巻き毛のスパニエルだね」

 ホームズはそう言いながら部屋を歩き回り、窓辺でぴたりと足を止めた。その声には確信がこもっていて、僕は驚いて顔を上げた。

「どうしてそんなに断言できるんだい?」

「理由は簡単だよ。今まさに、その犬がうちの玄関先にいるからだ。そして飼い主も来ている。動かないでくれ、ワトソン君。彼は君と同業者だし、君がいてくれた方が助かる。さあ、運命の劇的な瞬間だよ、ワトソン。階段を上ってくる足音が、君の人生に踏み込んでくる。良いものか悪いものかは、まだわからない。科学者ジェームズ・モーティマー医師は、犯罪の専門家シャーロック・ホームズに何を求めるのか。――どうぞ、お入りください!」

モ―ティマー医師


 僕は訪問者の姿を見て、思わず目を瞬いた。もっと典型的な田舎医者を想像していたのだが、現れたのはまったく違う人物だった。背がひょろりと高く、体つきは細い。嘴みたいに長い鼻が、金縁の眼鏡の奥で鋭く光る灰色の目の間から突き出ている。着ているのは一応“医者らしい”服装ではあるものの、フロックコートはくすんでいて、ズボンの裾はほつれていた。年齢は若いはずなのに、背中はもう少し曲がっていて、首を前に突き出すように歩く。その姿には、どこか“のぞき込むような親切さ”が漂っていた。

 彼は部屋に入るなり、ホームズの手にある杖に気づき、喜びの声を上げて駆け寄った。

「いやあ、本当に良かったです! ここに置いていったのか、それとも船荷事務所に忘れたのか、どうにも思い出せなくて。あの杖だけは、どうしても失くしたくなかったんです」

「贈り物なんですね」とホームズ。

「はい、そうです」

「チャリング・クロス病院から?」

「ええ、結婚した時に、病院の友人が何人かで贈ってくれたものです」

「いやいや、それは困りましたね」
 ホームズは首を振った。

 モーティマー医師は眼鏡越しにぱちぱちと瞬きし、軽く驚いたように言った。

「どうして困るんです?」

「我々の小さな推理が、少々乱されてしまいまして。ご結婚なさった、と?」

「はい。結婚を機に病院を辞めましてね。コンサルタントとしての将来も捨てざるを得ませんでしたが、家庭を持つ必要がありましたので」

「なるほど、では我々も完全に外したわけではないようですね」
 ホームズは軽く笑った。「さて、ジェームズ・モーティマー博士――」

「いや、博士ではありません。ミスターです、ホームズさん。私はただのM.R.C.S.の会員資格試験に受かっているだけでして」

「なるほど、几帳面な方のようだ」

「科学の端っこをつまんでいるだけの者ですよ、ホームズさん。未知の大海の岸辺で貝殻を拾っているようなものです。ところで、私がお話ししているのはシャーロック・ホームズさんご本人で、ほかのどなたかではありませんね?」

「いや、こちらは僕の友人、ワトソン医師だよ」

「お会いできて光栄です、先生。お名前はお友達とのご活躍とともに伺っております。いやあ、ホームズさん、あなたには本当に興味をそそられます。こんなに長頭型の頭蓋骨や、これほど発達した眼窩上隆起を拝見できるとは思いませんでした。頭頂縫合に沿って指を滑らせてもよろしいですか? もし本物が手に入るまでの間、石膏模型を作らせていただければ、どんな人類学博物館でも誇りにするでしょう。お世辞ではありません、本気であなたの頭蓋骨が欲しいのです」

 ホームズは奇妙な訪問者を椅子へと手で促した。

「あなたはご自身の分野において、相当な熱意をお持ちのようですね。僕がそうであるように」とホームズは言った。「その人差し指を見るに、手巻きの煙草をお作りになるようだ。どうぞ遠慮なく火をつけてください」

 モーティマー医師は紙と刻み煙草を取り出し、驚くほど器用に巻き上げた。長く震える指は、まるで昆虫の触角のように敏捷で落ち着きがない。

 ホームズは黙っていたが、鋭く動く視線から、彼がこの奇妙な客に強い興味を抱いているのが僕にはよくわかった。

「さて」とホームズがようやく口を開いた。「昨夜に続いて今日もお越しくださったのは、僕の頭蓋骨を観察するためだけではありませんよね?」

「いえいえ、もちろんそれも嬉しい機会でしたが、目的は別にあります。ホームズさん、私は自分が実務に向かない人間だと自覚しております。そして今、非常に重大で、しかも異常な問題に直面しているのです。あなたがヨーロッパで二番目の専門家であることは承知しておりますので――」

「ほう、それは光栄ですね。ちなみに一番はどなたです?」
 ホームズは少しむっとした様子で言った。

「厳密な科学的思考を持つ者にとっては、ベルティヨン氏(同時代にパリで活躍した警察官、生物測定学者)の業績こそが最も訴えるものがあります」

「では、彼に相談されたらいかがです?」

「申し上げました通り、科学的思考においては、です。しかし実務の面では、あなたが唯一無二と認められております。もし無礼がございましたら――」

「少しだけね」とホームズ。「ではモーティマー先生、前置きはこのくらいにして、あなたが僕に求めておられる問題の“正確な内容”を、どうか率直にお話しください」




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