シャーロック・ホームズ:新訳リブート

Sherlock Holmes: Rebooted Classics

— 現代の日本語でよみがえるホームズの物語 —

バスカヴィル家の犬

The Hound of the Baskervilles

―闇に吠える呪いの血統―

第12章 荒野の死

 しばらくのあいだ、僕は息を呑んだまま固まっていた。耳が信じられなかったのだ。だが、すぐに感覚も声も戻り、胸の奥にのしかかっていた重圧が、一瞬でふっと消えていくのを感じた。あの冷たく、鋭く、どこか皮肉めいた声――世界中で、あんな声の主はただ一人しかいない。

「ホームズ!」僕は叫んだ。
「ホームズ!」

「出ておいでよ。それと……拳銃、気をつけてくれよ?」ホームズは言った。

ホームズがいた


 粗末な入口をかがんで出ると、外の石に腰かけたホームズが、僕の驚愕の顔を見て灰色の瞳を愉快そうに輝かせていた。やつれ、痩せてはいたが、目は冴え、顔つきは鋭く、日に焼けて風にさらされた精悍な表情をしている。ツイードのスーツに布の帽子という格好は、荒野を歩く観光客と何ら変わらない。しかし、あの猫のような清潔好きの性分は健在で、顎はつるりと剃られ、シャツの襟はベイカー街にいたときと同じように完璧だった。

「誰かに会えてこんなに嬉しかったことはないよ」
僕は彼の手を思いきり握りしめた。

「そりゃそうだろ。顔に全部出てるって」

「まあ……否定はできないね」

「でもさ、驚いたのはこっちも同じなんだよ。まさか君が僕の隠れ家を見つけてるなんて思わなかったし、まして中にいるなんて、扉の二十歩手前まで気づかなかったんだ」

「僕の足跡を見たのかと思ったんだけど」

「いやいや、ワトソン。世界中の足跡から君のだけ見分けるなんて無理だって。もし本気で僕を欺きたいなら、まずタバコ屋を変えなよ。オックスフォード・ストリートのブラッドリー印の吸い殻を見たら、ああワトソンが近くにいるなってすぐ分かるんだから。ほら、そこに落ちてるだろ? きっと君が小屋に突っ込んだ“あの瞬間”に捨てたやつだよ」

「その通りだよ」

「だと思った。君の粘り強さはよく知ってるし、どうせ武器を手元に置いて待ち伏せしてるんだろうなって確信してたよ。……で、僕のこと犯人だと思ってたわけ?」

「誰だか分からなかった。でも、確かめるつもりだった」

「さすがワトソン。で、どうやって僕の居場所を突き止めた? あの脱獄囚の捜索の夜、僕がうっかり月を背にして姿を見せたときに気づいたのか?」

「うん、あのとき見た」

「それで小屋を片っ端から探したんだ?」

「いや、君の“少年”が目撃されてね。そこから当たりをつけたんだ」

「望遠鏡のじいさんか。最初レンズが光ったときは何かと思ったよ」
ホームズは立ち上がり、小屋の中を覗き込んだ。
「ほう、カートライトが補給を運んでくれたようだな。これは……紙袋? ということは、クーム・トレイシーへ行ったんだ?」

「行ったよ」

「ローラ・ライオンズ夫人に?」

「そうだ」

「見事だよ。どうやら僕らの調査は並行して進んでたみたいだな。結果を合わせれば、事件の全体像がかなり見えてくるはずだ」

 僕は心の底から安堵した。責任も謎も、もう神経が限界に近づいていたのだ。
「でも……どうやってここに来たんだ? それに、何をしていたんだ? てっきりベイカー街で恐喝事件の調査をしてると思ってたよ」

「そう思ってくれてたほうが都合よかったんだよ」

「じゃあ、僕を利用しておいて、信頼はしてなかったってことか!」
思わず声が荒くなった。
「ホームズ、僕はもっと信用されてもいいはずだ!」

「ワトソン、君は今回も、そしていつも通り、僕にとって欠かせない存在だよ。もし君を欺いたように見えたなら謝る。でもさ、これは半分は君のためでもあったんだ。危険だと思ったから、僕自身で調べる必要があった。僕がヘンリー卿や君と一緒にいたら、きっと同じ視点に囚われてたし、僕の存在が敵に警戒心を与えてただろうね。だからこそ、姿の見えない駒として動く必要があったんだよ。決定的な瞬間に全力で介入できるようにね」

「でも、どうして僕に黙ってたんだ?」

「君が知ってても役に立たなかったし、むしろ僕の存在がバレる危険があった。君は絶対何か伝えようとしたり、差し入れ持ってきたりするだろ? それがリスクなんだよ。だからカートライトを連れてきたんだ。覚えてるだろ、あの小柄な郵便局の少年。パン一斤と清潔な襟、男に必要なのはそれくらいだよ。彼はよく働いてくれて、僕の“もう一つの目”としても大活躍だった」

「じゃあ、僕の報告書は全部無駄だったってことか……」
書き上げたときの苦労と誇りを思い出し、声が震えた。

 ホームズはポケットから紙束を取り出した。

「そんなわけないだろ。ほら、ここにある。ちゃんと読み込んであるよ。届くのは一日遅れるだけだし、君の熱意と洞察には本当に感心してる。難しい事件なのに、よくここまでやってくれたよ」

 まだ胸の奥にわだかまりはあったが、ホームズの温かい言葉が怒りを溶かしていった。彼の言う通り、僕が彼の存在を知らなかったのは、確かに作戦として正しかったのだ。

「その顔なら大丈夫そうだな」
ホームズは僕の表情の陰りが消えたのを見て言った。
「さて、ローラ・ライオンズ夫人の件だけど……君が彼女に会いに行ったのはすぐ分かったよ。クーム・トレイシーで僕らに協力できるのは彼女くらいだからね。君が今日行かなかったら、明日には僕が行くつもりだった」

 太陽は沈み、荒野には薄闇がゆっくりと降りてきていた。空気は急に冷え込み、僕たちは暖を取るために小屋の中へ引っ込んだ。薄明かりの中、向かい合って座りながら、僕はホームズにあの女性との会話をすべて話した。ホームズは異様なほど興味を示し、満足するまで同じ部分を二度も繰り返させられた。

「これは相当重要だな」
話し終えると、ホームズが低く言った。
「この複雑きわまりない事件で、どうしても埋まらなかった穴が、これでつながった。君も気づいているかもしれないが、あの女性とステープルトンの間には、かなり親しい関係があるんだ」

「そんなに親しいとは知らなかったよ」

「疑いようがない。会っているし、手紙も交わしている。完全に通じ合っている関係だ。これは僕らにとって強力な武器になる。もし彼の“妻”を引き離せれば――」

「妻?」

「君からもらった情報へのお返しだよ。ここではミス・ステープルトンと呼ばれている女性は、実は妹でなくて彼の妻なんだ」

「なんてことだ、ホームズ! 本当に確かなんだろうね? どうしてヘンリー卿が彼女に恋するのを許したんだ?」

「ヘンリー卿が恋をしたところで、害があるのはヘンリー卿自身だけだよ。彼は特に気をつけて、ヘンリー卿が彼女に言い寄れないようにしていた。君も見ていただろう? 繰り返すけど、あの女性は彼の妻であって、妹なんかじゃない」

「でも、どうしてそんな手の込んだ嘘を?」

「“自由な女性”として扱ったほうが、彼にとって都合がよかったからさ」

 僕の胸の奥にくすぶっていた疑念が、一気に形を持って浮かび上がった。麦わら帽子に虫取り網を持った、あの無表情で色のない男――その姿の奥に、底知れない忍耐と狡猾さを秘め、笑顔の裏に殺意を隠した怪物のようなものが見えた気がした。

「じゃあ……僕らの敵は彼ってことか。ロンドンで僕らをつけ回していたのも?」

「そう解釈している」

「じゃあ、あの警告の、新聞を切り張りした手紙は……彼女から?」

「その通り」

 長いあいだ僕を包んでいた闇の中から、巨大な悪意の輪郭が、ぼんやりと、しかし確かに姿を現し始めていた。

「でも、本当に確かなんだろう、ホームズ? どうして彼女が妻だと分かったんだ?」

「彼が君に会ったとき、うっかり本当の経歴を漏らしたからだよ。今ごろ後悔してるだろうけどね。彼は昔、イングランド北部で学校の教師をしていた。教師ほど足がつきやすい職業はない。教育関係の組織を使えば、誰でもすぐに身元が割れる。少し調べたら、ある学校がひどい事件で破綻し、その経営者――名前は変えていたが――が妻とともに姿を消していた。特徴も一致した。さらに、その失踪した男が昆虫学に熱中していたと知った瞬間、すべてがつながった」

 闇は深まっていたが、まだ影に隠れているものは多かった。

「もし彼女が本当に妻なら、ローラ・ライオンズ夫人はどうなるんだ?」
僕は尋ねた。

「そこは君の調査が光った点だよ。君が彼女と話したことで状況がずいぶん明確になった。彼女が夫と離婚しようとしていたとは知らなかった。ステープルトンを独身だと思っていたから、彼と結婚できると信じていたんだろう」

「じゃあ、真実を知ったら?」

「そのときは、彼女に協力してもらえるかもしれない。明日、まずは二人で彼女に会いに行くべきだ。……ところでワトソン、君はちょっと持ち場を離れすぎじゃないか? 本来いるべき場所はバスカヴィル館だろう」

 西の空の赤い名残は消え、荒野には完全な夜が降りていた。薄紫の空に、かすかな星がいくつか瞬いていた。

「最後に一つだけ、ホームズ」
僕は立ち上がりながら言った。
「僕らの間で秘密にする必要なんてないだろ。結局、彼は何を狙っているんだ?」

 ホームズは声を落として答えた。

「殺人だよ、ワトソン。洗練され、冷酷で、計画的な殺人だ。詳しくはまだ言えない。僕の網は彼を追い詰めつつあるし、彼の網もヘンリー卿を囲いつつある。君の助けで、もうほとんど僕の手の中だ。ただ一つだけ危険がある。僕らが動く前に、彼が先に手を下すことだ。あと一日……多くて二日で事件は完成する。でもそれまでは、病気の子を見守る母親のように、ヘンリー卿を守ってくれ。今日の君の任務は十分に価値があった。だが……できれば彼のそばを離れてほしくなかった。……待て!」

 荒野の静寂を切り裂くように、恐怖と苦痛が入り混じった長い絶叫が響き渡った。そのおぞましい叫び声に、僕の血は一瞬で凍りついた。

「なんてことだ……! いったい何が? どういう意味なんだ?」

 ホームズは跳ねるように立ち上がり、小屋の入口に駆け寄った。闇の中に身を乗り出すその姿は、肩を前に落とし、頭を突き出し、鋭い目で暗闇を射抜いていた。

「静かに……」
彼は低く囁いた。
「静かに」

 叫びは激しさのせいで大きく響いたが、発せられたのは遠く離れた荒野のどこかだった。だが次の瞬間、再び耳を打ち、さっきよりも近く、より大きく、切迫した響きで迫ってきた。

「どこだ……?」
ホームズが囁く。その声の震えで、あの鉄の男が心の底から動揺しているのが分かった。
「どこなんだ、ワトソン?」

「たぶん……あっちだ」
僕は闇の向こうを指さした。

「いや、あっちだ!」

 またしても、苦悶の叫びが夜を切り裂いた。今度はさらに大きく、さらに近い。そしてその声に混じって、低く唸るような、どこか音楽的でありながら不気味な響きが、海のうねりのように上下しながら聞こえてきた。

「……あの犬だ!」
ホームズが叫んだ。
「行くぞワトソン! 急げ! もし間に合わなかったら……!」

 ホームズは荒野を駆け出し、僕もすぐにその背中を追った。だが、僕らのすぐ前方の起伏の中から、最後の絶望的な叫びが上がり、そのあとに鈍く重い衝撃音が響いた。

 僕らは立ち止まり、耳を澄ませた。
 風ひとつない夜の沈黙を破る音は、もう何もなかった。

 ホームズは頭を抱え、地面を踏み鳴らした。

「やられた……ワトソン。間に合わなかった」

「そんな……そんなはずない!」

「僕が手を出し渋ったせいだ。そして君もだ、ワトソン。持ち場を離れた結果がこれだ! だが……もし最悪の事態なら、必ず仇を取る!」

 僕らは闇の中を必死に走った。岩にぶつかり、ハリエニシダの茂みをかき分け、丘をよじ登り、斜面を転がるように駆け下り、あの恐ろしい声のした方向へただひたすらに進んだ。高みに出るたび、ホームズは周囲を見回したが、荒野は濃い影に覆われ、何ひとつ動くものはなかった。

「何か見えるか?」

「何も」

「……待て、今のは?」

 低い呻き声が聞こえた。左手のほうだ。そちらには岩の尾根があり、その先は石だらけの斜面を見下ろす断崖になっていた。そのギザギザの岩肌に、何か黒く不規則なものが張りついている。

 僕らが駆け寄ると、その輪郭ははっきりと形を成した。

 うつ伏せに倒れた男だった。頭は不自然な角度で折れ曲がり、肩は丸まり、体は宙返りの途中で固まったように縮こまっている。あまりに奇妙な姿勢で、さっきの呻きが彼の最期の息だったとは、すぐには理解できなかった。

 僕らが身をかがめても、暗い影は微動だにしなかった。

 ホームズは男に触れ、すぐに手を引っ込めて息を呑んだ。火をつけたマッチの光が、彼の指についた血の塊を照らし、そしてゆっくりと広がる頭部の血だまりを照らし出した。

 そして、その光は――僕らの心を一瞬で凍らせた。

 倒れていたのは、ヘンリー・バスカヴィル卿の遺体だった。

ヘンリー卿の死?


 あの独特の赤みがかったツイードのスーツ――ベイカー街で初めて彼に会った朝に着ていた、あの服を僕らが忘れるはずがなかった。マッチの明かりが一瞬だけそれを照らし、そして希望が消えるのと同じように、炎は揺らめいて消えた。
 ホームズがうめき声を上げ、闇の中でその顔が青白く浮かび上がった。

「なんてことだ……あの野郎!」
僕は拳を握りしめて叫んだ。
「ホームズ、僕は……僕は彼を一人にしてしまったことを一生許せない!」

「いや、僕のほうが罪深いよ、ワトソン。事件を完璧に仕上げようとしたばかりに、依頼人の命を犠牲にしてしまった。僕の探偵人生で最大の痛手だ。だが……どうして分かっただろう? どうして、あれほど警告したのに、彼が一人で荒野に出るなんて思えた?」

「叫び声が聞こえて……あんな悲鳴が……それでも助けられなかったなんて! あの化け物みたいな犬はどこだ? まだこの岩陰に潜んでるかもしれない。そしてステープルトンは? あいつには必ず償わせる!」

「もちろんだ。必ずだ。伯父と甥は殺されたんだ――伯父は“超自然の怪物”だと思い込んだ獣の姿に恐怖で死に、甥はその獣から逃げようとして命を落とした。だが、今のままでは“人間”と“獣”のつながりを証明できない。聞いた声以外、犬の存在すら証明できない。ヘンリー卿は落下死したように見えるからね。だが……あの男がどれほど狡猾でも、明日が終わる前には僕の手の中だ!」

 僕らは、無残に砕けた遺体を挟んで立ち尽くした。長く苦しい努力の果てに、こんな悲惨な結末が待っていたなんて……胸が締めつけられた。
 やがて月が昇り、僕らは彼が落ちた岩の上へ登った。そこから見下ろす荒野は、半分が銀色に照らされ、半分が深い影に沈んでいた。
 遠く、グリムペンの方角に、ひとつだけ黄色い光がぽつんと灯っていた。ステープルトン家の孤独な灯りだ。
 僕は歯を食いしばり、拳を突き上げて呪いの言葉を吐いた。

「今すぐ捕まえに行くべきじゃないのか?」

「まだ証拠が揃っていない。あいつは最後の最後まで用心深くて狡猾だ。大事なのは“知っていること”じゃなくて“証明できること”だよ。ひとつでも手順を誤れば、奴は逃げる」

「じゃあ、どうする?」

「明日やることはいくらでもある。今夜は……せめて友のために最後の務めを果たそう」

 僕らは急な斜面を降り、銀色の石の上に黒く横たわる遺体へ近づいた。そのねじれた四肢の苦悶の姿に、胸が締めつけられ、涙で視界が滲んだ。

「助けを呼ばないと、ホームズ! 館まで運ぶなんて無理だ。まさか……正気か?」

 ホームズが突然叫び、遺体に身をかがめた。次の瞬間、彼は踊り出し、笑い、僕の手を握りしめて振っていた。あの冷静沈着なホームズが……? 胸の奥に隠していた炎が一気に噴き出したようだった。

「ヒゲだ! ヒゲがある! この男、ヒゲを生やしてる!」

「ヒゲ?」

「ヘンリー卿じゃない……これは……ああ、あの脱獄囚だ!」

遺体を見る


 僕らは慌てて遺体をひっくり返した。濡れたヒゲが月明かりに照らされ、冷たく光った。突き出た額、落ちくぼんだ獣のような目―― 間違いなかった。あの岩陰から僕を睨みつけていた、あの顔。
 犯罪者セルデンだった。

 すべてが一瞬でつながった。ヘンリー卿が「古い服をバリモアにやった」と言っていたこと。バリモアは脱走を助けるために、それをセルデンに渡したこと。靴も、シャツも、帽子も――全部ヘンリー卿のものだった。

 悲劇は悲劇だが、この男は少なくとも“法に照らせば死刑に値する”罪人だった。僕は胸の奥から湧き上がる安堵と喜びを抑えきれず、ホームズにすべてを説明した。

「つまり、その服がこの哀れな男の死を招いたわけだ」
ホームズが言った。
「犬はヘンリー卿の持ち物――おそらくホテルで盗まれた靴――で匂いをつけられ、彼を追った。そしてこの男を追い詰めた。だが、一つだけ妙だ。暗闇の中で、どうしてセルデンは犬が自分を追っていると分かった?」

「聞こえたんだろう」

「荒野で犬の声を聞いたくらいで、こんな強靭な男が恐怖で絶叫しながら逃げ回るか? 叫び声からして、かなり長い距離を走っている。どうして“自分が狙われている”と確信した?」

「僕には、もっと大きな謎があるよ。もし僕らの推測が正しいなら――」

「僕は推測なんてしない」

「じゃあ……どうして今夜だけ犬が放たれた? いつも荒野を自由に走らせてるわけじゃないだろう。ステープルトンは、ヘンリー卿がここに来ると確信していた?」

「君の謎はすぐに解けるだろう。でも僕のほうは永遠に分からないかもしれない。さて、この男の遺体をどうする? 狐やカラスの餌にするわけにはいかない」

「小屋に運んで、警察に連絡するまで保管しよう」

「賛成だ。君と僕なら運べるはず――ん? ワトソン、見ろ! あの男だ。なんて図太い……! いいか、疑っているそぶりは絶対に見せるな。ひと言でも漏らしたら、僕の計画が全部台無しだ」

 荒野の向こうから、ひとつの影が近づいてきた。赤く鈍い葉巻の火が揺れている。月明かりに照らされ、軽やかな足取りと小柄な体つきが見えた。
 ステープルトンだった。

 彼は僕らを見つけると一度立ち止まり、そしてまた歩み寄ってきた。

「おや、ワトソン先生じゃありませんか。こんな夜更けに荒野でお会いするとは思いませんでしたよ。……しかし、これは? 誰か怪我を? まさか……ヘンリー卿じゃないでしょうね!」

 彼は僕を押しのけ、遺体にかがみ込んだ。鋭い息を呑む音が聞こえ、葉巻が指から落ちた。

「だ、誰だ……この男は?」

「セルデンだ。プリンストンから脱走した男だよ」

セルデンだった


 ステープルトンは死人のように青ざめた顔で僕らを振り返った。しかし、驚愕と落胆をなんとか押し殺したらしく、すぐに表情を整え、鋭い視線をホームズと僕の間に走らせた。

「いやはや……なんと恐ろしい出来事でしょう。いったい、どうして亡くなったのです?」

「この岩場から落ちて、首の骨を折ったみたいだよ。僕と友人は荒野を散歩していて、叫び声を聞いたんだ」

「私も叫び声を聞きました。それで外へ出たのです。ヘンリー卿が心配でして」

「どうしてヘンリー卿を?」
僕は思わず口を挟んだ。

「私が“こちらへ来てはどうか”と申し上げたのです。来られなかったので不思議に思いましてね。そこへ荒野で叫び声がしたものですから、自然と身の危険を案じたのです。ところで――」
彼の目がまた僕からホームズへと素早く動いた。
「叫び声以外に、何かお聞きになりませんでしたか?」

「いや、何も」
ホームズが答えた。
「あなたは?」

「いえ、私も」

「では、どういう意味だ?」

「ご存じでしょう、農夫たちが語る“幽霊犬”の噂を。夜の荒野で吠え声が聞こえるとか……。今夜、そうした証拠があったのかと思いまして」

「そんなものは聞かなかったよ」
僕はきっぱり言った。

「では、この気の毒な男の死因については?」

「不安と寒さで正気を失ったんだろうね。荒野を狂ったように走り回り、最後にはここから落ちて首を折った……そんなところだと思う」

「もっともらしい説ですね」
ステープルトンは安堵のため息をついた。
「シャーロック・ホームズさん、あなたはどうお考えです?」

 ホームズは軽くうなづいた。

「見分けが早いですね」
彼は穏やかに言った。
「ワトソンが来て以来、あなたがこちらに現れるのを待っていましたよ。ちょうど悲劇に間に合われたようですね」

「ええ、まったく。友人の説明で事実は十分に説明できるでしょう。明日ロンドンへ戻りますが、嫌な思い出を持ち帰ることになりそうです」

「明日お帰りに?」

「そのつもりだよ」

「今回のご訪問で、我々を悩ませていた出来事に何か光が当たりましたでしょうか?」

 ホームズは肩をすくめた。

「望んだ成果が得られるとは限りません。調査に必要なのは事実であって、伝説や噂ではない。満足のいく事件ではありませんでしたよ」

 ホームズは、いつも以上に飄々とした、気取らない口調で言った。ステープルトンはまだじっと彼を見つめていたが、やがて僕のほうへ向き直った。

「この気の毒な方を私の家へ運ぶことも考えましたが……妹がひどく怯えるでしょうし、さすがにためらわれます。顔に布でもかけておけば、朝までは大丈夫でしょう」

 そうして話はまとまった。ステープルトンの“ぜひお越しください”という申し出を断り、僕とホームズはバスカヴィル館へ向かった。自然学者の彼は一人で荒野へ戻っていった。

 振り返ると、広い荒野をゆっくりと歩く彼の姿が月明かりに浮かび、その後ろには、銀色の斜面に黒い染みのように、あの男が無残な最期を遂げた場所が残っていた。




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