ライオンのたてがみ
THE LION'S MANE
―断崖の村を揺るがす、謎の死と最後の言葉―

●あらすじ
サセックスの海辺で隠居生活を送るホームズは、友人マクファーソンが浜で謎の苦悶の末に倒れた事件に遭遇する。背中には奇怪な赤い線が走り、最期の言葉は「ライオンのたてがみ」。恋人モードや同僚マードックら周囲の人間関係には不穏な影があり、孤立した土地ゆえ容疑者も限られる。不可解な傷の正体と、彼を襲った“何か”を追うホームズは、海辺に潜む意外な脅威へと迫っていく――。
「ストランド・マガジン」1926年12月号初出。
●登場人物
- シャーロック・ホームズ:サセックスで隠居生活を送る名探偵。事件解明に乗り出す。
- ハロルド・スタックハースト:〈ゲーブルズ〉の校長でホームズの友人。被害者の発見者。
- フィッツロイ・マクファーソン:理科教師。浜で謎の死を遂げる。
- イアン・マードック:数学教師。寡黙で気難しい性格。疑惑の目を向けられる。
- モード・ベラミー:被害者の恋人。強い意志を持つ美しい女性。
- トム・ベラミー:モードの父。漁業と海水浴施設を営む実直な男。
- ウィリアム・ベラミー:モードの兄。粗野で気性が荒い。
- アンダーソン巡査:フルワースの巡査。事件の初動対応を行う。
- バードル警部:サセックス警察の警部。捜査の指揮を執る。
第1章 海辺の静寂を破る悲鳴
僕の長い職業人生の中でも、これほど奇妙で、これほど難解な事件はそう多くない――そう断言できるほどの出来事が、まさか僕の引退後、しかもほとんど玄関先に転がり込むような形で訪れるとは思ってもみなかった。あれは僕がロンドンの陰鬱な空気に長年揉まれ続けた末、ようやく念願の自然に囲まれた暮らしを求めてサセックスの小さな家に引きこもった頃のことだ。
その時期、ワトソンはといえば、僕の生活圏からほとんど消えかけていた。週末にふらりと顔を出す程度で、以前のように四六時中そばにいるわけではない。だから今回の事件は、僕自身が語り手を務めるしかなかった。
ああ、もし彼がそばにいてくれたなら、この奇妙な出来事も、僕が最後に勝利へたどり着くまでの紆余曲折も、もっと見事に書き残してくれただろうに。
だが現実には、僕が自分の言葉で、一歩ずつ、〈ライオンのたてがみ〉という謎へ挑んだ道のりを語るしかないのだ。
僕の家は丘陵の南斜面に建っていて、海峡を一望できる。海岸線は延々と白亜の断崖で、そこへ降りるには、急で滑りやすい、長く曲がりくねった小道を使うしかない。
その小道を下りきった先には、満潮のときでも百ヤードほどの丸石と砂利の浜が広がっている。ところどころに潮が満ちるたび新しく満たされる天然のプールのような窪みがあって、泳ぐにはうってつけだ。
この素晴らしい浜は何マイルも続いているが、ただ一か所だけ、フルワースという小さな入り江と村がその連なりを断ち切っている。
僕の家は孤独だ。住んでいるのは僕と、年老いた家政婦、それに僕の飼っている蜂たちだけ。
ただ、半マイルほど離れた場所に、ハロルド・スタックハーストが経営する〈ゲーブルズ〉という名の寄宿学校がある。そこには二十人ほどの若者が、さまざまな職業を目指して勉強しており、教師も何人か常駐している。
スタックハースト本人は、若い頃は名の知れたボート競技の選手で、学問にも優れた人物だ。僕がこの海辺に越してきた日から彼とは気が合い、夕方に互いの家へふらりと立ち寄るような仲になっていた。
1907年7月の終わり、激しい嵐が海峡を吹き抜け、波は断崖の根元まで打ち寄せ、潮の引き際には小さなラグーンまでできていた。
問題の朝、風はすっかり収まり、世界は洗い立てのように清々しかった。こんな日に仕事などできるはずもなく、僕は朝食前に散歩へ出て、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んでいた。
断崖沿いの小道を歩き、浜へ降りる急斜面の入口へ向かっていたとき、背後から声がした。振り返ると、スタックハーストが手を振っていた。
「いやあ、最高の朝だな、ホームズさん! やっぱり外に出てると思ったよ!」
「泳ぎに行くのかい?」
「はは、またいつもの癖でね」
彼は笑いながら、膨らんだポケットを軽く叩いた。
「マクファーソンは早く出たらしいから、もう浜にいるかもしれない」
フィッツロイ・マクファーソンは理科の教師で、背が高く立派な若者だったが、リウマチ熱の後遺症で心臓を悪くしていた。それでも生まれつきの運動家で、負担の少ない競技なら何でもこなした。
夏でも冬でも泳ぎに行くのが日課で、僕も泳ぎが好きなので、よく一緒に海へ入ったものだ。
そのとき、ちょうど彼の姿が見えた。
断崖の縁――小道が終わるあたり――から頭がのぞき、次の瞬間には全身が現れた。だが、まるで酔っ払いのようにふらついている。
そして突然、彼は両手を突き上げ、恐ろしい叫び声をあげて、うつ伏せに倒れ込んだ。
スタックハーストと僕は同時に駆け出した。距離は五十ヤード(約45m)ほどだったろうか。彼を仰向けにすると、すでに死の影が濃く落ちていた。
落ちくぼんだ目、血の気を失った頬――どう見ても助かる状態ではない。
だが一瞬だけ、彼の顔に生気が戻り、何かを必死に警告するように、二、三語を絞り出した。
その声は濁っていて聞き取りづらかったが、最後の言葉だけは、悲鳴のように耳へ突き刺さった。
「……ライオンのたてがみ……!」
まったく脈絡がなく、意味もわからない。だが、どう聞き直してもそうとしか聞こえなかった。
彼は半身を起こし、両腕を空へ伸ばし、そして横へ崩れ落ちた。
フィッツロイ・マクファーソンは、そのまま息を引き取った。

スタックハーストはあまりの惨状に固まっていたが、僕はというと、当然ながら全神経が研ぎ澄まされていた。そしてその警戒は必要だった。というのも、これはどう見ても尋常ならざる事件だったからだ。
マクファーソンが身につけていたのは、バーバリーのコートとズボン、それに紐も結んでいないキャンバス地の靴だけ。倒れた拍子に、肩に引っかけていただけのコートがずり落ち、上半身が露わになった。
僕たちは思わず息を呑んだ。
彼の背中には、まるで細い金属の鞭で滅多打ちにされたかのような、暗赤色の線が無数に走っていたのだ。
その傷跡はしなやかな道具でつけられたとしか思えず、怒りに満ちた長い鞭痕は肩から肋骨のあたりまで曲線を描いていた。
さらに、彼の顎からは血が滴り落ちていた。激痛に耐えきれず、下唇を噛み切ったのだろう。
引きつり歪んだ顔が、その苦しみの凄まじさを物語っていた。
僕が膝をつき、スタックハーストが立ったまま遺体を見下ろしていたとき、ふいに影が差した。振り向くと、イアン・マードックがそばに立っていた。
マードックは寄宿学校の数学教師で、背が高く、痩せていて、色黒で、寡黙。誰とも親しくならないタイプで、学生たちからも「変わり者」と見られていた。
彼はまるで、無理数や円錐曲線の世界に住んでいて、現実とは薄い糸でしかつながっていないような男だった。
そのうえ、彼にはどこか異国の血が混じっているらしく、真っ黒な瞳と浅黒い顔つき、そして時折爆発する激しい怒り――それは「凶暴」と呼ぶしかないほどだった。
以前、マクファーソンの飼い犬にしつこく吠えられたとき、彼はその小犬をつかんでプレートガラスの窓へ投げつけたことがある。スタックハーストが彼を解雇しなかったのは、教師としての価値が高かったからにすぎない。
そんな複雑な男が、今、僕たちの横に立っていた。
犬の件を思えば、マクファーソンと彼の間に深い友情があったとは言い難いが、それでも彼は目の前の光景に本気でショックを受けているように見えた。
「かわいそうに……かわいそうに……。僕に何ができる? どうすればいい?」
スタックハーストが声をかけた。
「彼と一緒にいたのか? 何があったのか知ってるか?」
「いや、いや、今朝は遅く起きてね。浜には行ってない。〈ゲーブルズ〉からそのまま来たんだ。僕に何ができる?」
「フルワースの警察署へ急いでください。すぐに報告を」
マードックは無言で駆け出した。
僕は事件の処理に取りかかり、スタックハーストは呆然としたまま遺体のそばに立ち続けていた。