高名な依頼人
THE ILLUSTRIOUS CLIENT
―悪徳男爵の“禁断の黒い手帖”を奪え!―
第5章 罪の報いと、砕けた婚約
次の瞬間、男爵は窓の外へ身を躍らせ、庭の月桂樹の茂みに落ちる音がした。「ぐあああああっ!」
男爵は怒りの咆哮を上げ、窓へ駆け寄った。
そして――その瞬間だった。
ほんの一瞬の出来事なのに、僕にははっきり見えた。
茂みの中から、
一本の腕――女の腕――が伸びた。
同時に、男爵が恐ろしい叫び声を上げた。耳に焼き付いて離れない、あの絶叫だ。

彼は両手で顔を押さえ、部屋の中を狂ったように走り回り、壁に頭を何度も叩きつけた。
そして床に倒れ込み、転げ回り、のたうち、家中に響き渡る悲鳴を上げ続けた。
「水だ! 頼む、水を! 水をくれぇぇぇ!!」
僕はサイドテーブルの水差しを掴み、彼のもとへ駆け寄った。
同時に執事と数人の従者が廊下から飛び込んできた。
一人は、僕が男爵の顔をランプの光に向けた瞬間、気絶した。
――硫酸が、顔じゅうを焼いていた。
耳からも顎からも滴り落ち、片目はすでに白く濁り、もう片方は真っ赤に腫れ上がっていた。
数分前には“美しい”とさえ思った顔が、今はまるで、濡れた汚いスポンジで擦り潰された絵画のように崩れ、変色し、人間とは思えない姿になっていた。
僕は短く状況を説明した。
硫酸を浴びせた者が窓から逃げたこと、庭に出た者もいたが、暗くなり雨も降り始めていたこと。
男爵は悲鳴の合間に、復讐の言葉を吐き散らした。
「キティ・ウィンターだ! あの地獄の雌猫め!
許さない! 必ず報いを受けさせてやる!
ああ神よ、この痛みは耐えられん!!」
僕は油で顔を洗い、焼けただれた部分に綿を当て、モルヒネを注射した。
ショックのせいで、彼はもう僕を疑っていなかった。
僕の手を掴み、まるで僕がその濁った目を治せるとでも思っているかのように、必死にしがみついてきた。
彼がどれほどの悪行を積み重ねてきたか、僕が知らなければ、この惨状に涙を流したかもしれない。
しかしそうではなかった。
それでも、焼けただれた手で触れられるのは吐き気がするほど嫌だった。
だから、彼の主治医と専門医が駆けつけてくれたときは心底ほっとした。
警察の警部も来ていたので、僕は本当の名刺を渡した。
隠しても無駄だ。僕はスコットランド・ヤードでもホームズ並みに顔が知られている。
そして、あの恐怖の館を後にし、僕は一時間後にはベイカー街に戻っていた。
ホームズはいつもの椅子に座っていた。
顔は青白く、疲れ切っていた。
怪我のせいだけではない。
今夜の出来事は、彼の鉄の神経をも揺さぶったのだ。
僕の報告を聞くと、彼は震える声で言った。
「因果応報だよ、ワトソン……罪の報いは必ず来る。
神のみぞ知るが、あの男には十分すぎるほどの罪があった」
彼は机の上の茶色い手帖を手に取った。
「これが、あの女が言っていた手帖だ。
これで婚約は終わる。
これで駄目なら、何をしても無理だ。
自尊心のある女性なら、こんなものを見て耐えられるはずがない」
「彼の“恋愛日記”か?」
「いや、“欲望日記”と言ったほうが正しいね。
あの女が手帖の存在を口にした瞬間、僕はこれが決定的な武器になると悟った。
だが彼女に悟られないよう、黙っていた。
そして僕への襲撃で、男爵は僕を警戒しなくなった。
それが好都合だった。
アメリカ行きが決まったことで、時間がなくなったがね。
あんな危険な手帖を置いていくはずがない。
だから急いだ。
夜の盗みに入るのは不可能だ。警戒が厳しい。
だが、夕方ならチャンスがある。
君と“青い皿”が必要だったのはそのためだよ」
「彼は僕が君の差し金だと気づいた」
「だろうね。でも、君は十分時間を稼いでくれた。
僕が手帖を取るには足りたが、逃げるには足りなかった。
……ああ、ジェームズ卿。来てくださってよかった」
ジェームズ卿は、先に送っておいた連絡を受けて来てくれたのだ。
彼はホームズの説明を深い注意で聞き、やがて感嘆の声を上げた。
「あなたは奇跡を成し遂げた! なんという働きだ!
しかし、ワトソン博士の話が本当なら、あの男の傷はあまりに悲惨だ。
この手帖を使わずとも、婚約は破談になるのでは?」
ホームズは首を振った。
「デ・マーヴィル嬢のような女性は、そうはならない。
彼女は“傷ついた殉教者”として、むしろ彼を愛するだろう。
違うんだ。
壊すべきは彼の“肉体”ではなく“道徳”だ。
この手帖が彼女を現実に引き戻す。
他に方法はない。
彼自身の筆跡だ。彼女は否定できない」
ジェームズ卿は手帖と皿を持って帰った。
僕も遅くなっていたので、一緒に外へ出た。
彼の馬車が待っていた。
彼は急いで乗り込み、御者に命じた。
そのとき、外套が半分窓からはみ出し、
馬車の側面の紋章が一瞬だけ露わになった。
僕は息を呑んだ。
――依頼人が誰なのか、分かってしまった。
僕はベイカー街へ駆け戻り、階段を駆け上がった。
「ホームズ、分かったよ! 依頼人は――」
「ワトソン」
ホームズは手を上げて制した。
「彼は忠義の友であり、騎士道精神を持つ紳士だ。
それで十分だよ。
それ以上は、永遠に語らないでおこう」
その後、手帖がどう使われたのか、僕は知らない。
ジェームズ卿が処理したのかもしれないし、
もっと繊細な役目として、父親が娘に見せたのかもしれない。
だが、結果は望んだ通りだった。
三日後、モーニング・ポスト紙に
――グルーナー男爵とヴァイオレット・デ・マーヴィル嬢の婚約解消――
の記事が載った。
同じ紙面には、
キティ・ウィンター嬢が硫酸投擲の罪で裁判にかけられたことも書かれていた。
だが、裁判では多くの情状が明らかになり、彼女の刑は可能な限り軽いものとなった。
ホームズは“住居侵入”で訴追される可能性があったが、目的が正しく、依頼人が“高名すぎる”場合、英国の厳格な法律も、少しだけ人間的で柔軟になるらしい。
だからか、僕の友人は、いまだ法廷に立たされてはいない。
🗺️ 地名・施設一覧
| 地名・施設名 | 概要・リンク |
|---|---|
| クイーン・アン通り(Queen Anne Street) | 僕ワトソンが当時住んでいた実在の通り。地図を見る |
| カールトン・クラブ(Carlton Club) | ダメリー卿が連絡を寄越した紳士クラブ。政治家や貴族が集う会員制クラブ。地図を見る |
| ノーサンバーランド・アヴェニュー(Northumberland Avenue) | ホームズと僕が利用したトルコ風呂のある通り。地図を見る |
| シンプソンズ(Simpson’s-in-the-Strand) | ホームズとワトソンがよく食事をする老舗レストラン。地図を見る |
| ストランド(The Strand) | ロンドン中心部の大通り。シンプソンズがある。地図を見る |
| チャリング・クロス(Charing Cross) | ホームズが襲撃された際に運ばれた病院のある地域。地図を見る |
| カフェ・ロイヤル(Cafe Royal) | ホームズ襲撃現場となったレストラン。地図を見る |
| グラスハウス・ストリート(Glasshouse Street) | 犯人が逃走した裏通り。地図を見る |
| バークレー・スクエア(Berkeley Square) | デ・マーヴィル将軍の邸宅がある高級住宅街。地図を見る |
| リヴァプール港(Liverpool) | 男爵がアメリカ行きの船に乗る予定だった港。地図を見る |
| ヴァーノン・ロッジ(Vernon Lodge) | グルーナー男爵の邸宅。架空の施設。 |