シャーロック・ホームズ:新訳リブート

Sherlock Holmes: Rebooted Classics

— 現代の日本語でよみがえるホームズの物語 —

最後の事件

THE FINAL PROBLEM

「僕らの“最後の対決”──滝壺に消えた二人の影」

最後の事件タイトル


●あらすじ
ワトソン医師は、親友ホームズから「命を狙われてる」と突然告げられる。相手は“犯罪界のナポレオン”と噂される悪の天才モリアーティ教授。ホームズは長年追ってきた巨大犯罪組織をついに追い詰め、二人はヨーロッパへ逃避行しながら最後の勝負に挑むことになった。旅の途中、影のように迫る追跡者、仕掛けられる罠、そしてホームズの胸に秘めた覚悟──。二人の友情と知略が試される、運命のクライマックスが怒涛の滝で待っていた。
『ストランド・マガジン』1893年12月号初出

●主な登場人物
-シャーロック・ホームズ:天才探偵。冷静沈着だが情に厚く、モリアーティと死闘を繰り広げる。
-ジョン・H・ワトソン:僕。医師でありホームズの親友。彼の冒険を記録する語り手。
-ジェームズ・モリアーティ教授:“犯罪界のナポレオン”と呼ばれる天才犯罪者。ホームズ最大の宿敵。
-マイクロフト・ホームズ:ホームズの兄。政府中枢に関わる切れ者で、弟を陰から支える。
-ピーター・スタイラー:マイリンゲンのホテル主人。英語が堪能で旅人に親切。
-パターソン警部:ロンドン警察の警部。ホームズの残した証拠で組織壊滅に動く。

第1章 「影が迫るベイカー街」

 僕は重い気持ちでペンを執っている。親友シャーロック・ホームズの、あの特異な才能について書き記す言葉を、これで本当に最後にしなければならないと思うと、胸の底から沈んでいくような気分になるのだ。支離滅裂で、とても十分とは言えない形ながらも、僕はこれまで、彼と共に体験した数々の奇妙な事件について書き残そうとしてきた──最初の出会いとなった『緋色の研究』のころから、『海軍条約事件』で彼が口を挟み、あわや大事になりかけた国際問題を未然に防いだあの出来事に至るまで。

 本来なら、あの事件までを書いて筆を置くつもりだった。その後に起こった、僕の人生に大きな空白を生み出し、この二年間ではとうてい埋めきれなかった出来事については、一切触れずに終えるつもりでいたのである。ところがここ最近、ジェームズ・モリアーティ大佐が、兄弟の名誉を擁護する手紙を世に出し始めたことで、僕はもう沈黙を守るわけにはいかなくなった。あの場で何が起こったのか、事実をありのまま世に示すか、あるいは虚偽を黙認するか──選ぶ余地はない。あの一件の真相を、完全な形で知っているのは僕だけであり、今やそれを隠し立てしても、もはや何の益もないと僕は判断している。

 僕の知る限り、公の場に出た記録は三つしかない。一つ目は一八九一年五月六日付『ジュルナル・ド・ジュネーヴ』の記事。二つ目は五月七日にイギリス各紙に載ったロイター電。そして最後に、先ほど触れた大佐の手紙である。最初の二つはあまりにも簡略すぎ、最後の一つは──これから示すとおり──事実を完全にねじ曲げたものである。ゆえに、教授モリアーティとシャーロック・ホームズのあいだに「本当は何があったのか」を、初めてきちんと語るのは、この僕の役目なのだ。

最後の対決


 僕が結婚し、その後、自分の医院を構えるようになってからは、それまでのようなホームズとの密接な関係は、ある程度かたちを変えざるをえなくなった。もちろん彼は、調査に同行者を必要とするときには時おり僕を呼びに来たが、そうした機会は次第に少なくなっていき、一八九〇年の一年間に関して言えば、僕の手元に記録が残っている事件は三件だけである。その年の冬から、翌一八九一年の春先にかけて、フランス政府から極めて重大な案件を依頼され、彼が向こうで活動していることを、僕は新聞で知った。また、ナルボンヌとニームの日付が記された二通の短い手紙から、彼のフランス滞在はかなり長引きそうだと推測していた。

 だからこそ、一八九一年四月二十四日の夕方、彼がふいに僕の診察室へ姿を現したときには、本気で驚いたのである。よく見ると、彼はいつにも増して青白く、やつれて見えた。

「──ああ、ちょっと自分を酷使しすぎてね」
 僕の言葉というより、表情を見て取って、ホームズはそう言った。
「ここしばらく、少し追い詰められていてね。……ワトソン、窓のシャッターを閉めてもいいかな?」

 部屋の明かりは、僕が読書に使っていた机上のランプだけだった。ホームズは壁づたいにそろそろと歩き、窓のシャッターを勢いよく閉めると、しっかりと閂をおろした。

「……何かを恐れているんだ?」と僕は訊いた。
「まあ、そうだね」

「何をだい?」
「空気銃を」

「おいおいホームズ、それはどういう意味だ?」
「ワトソン、君は僕のことを、決して神経過敏な男だとは思っていないはずだ。だが同時に、目の前まで迫った危険を認めまいとするのは、勇気ではなくただの愚かさだよ。──火を貸してもらえるかな?」

 彼はそう言って煙草に火をつけ、煙を吸い込むと、その刺激をありがたがるように、ゆっくりと吐き出した。

「こんな時間に押しかけて、まずは謝っておくよ」彼は言った。「それからもう一つ、少々型破りなお願いをしなくてはならない。これから君の家を出るとき、裏庭の塀をよじ登って外へ出させてもらいたいんだ」

「……それはいったい、どういうことなんだ?」
 僕がそう問いただすと、彼はすっと片手を差し出した。その拳をランプの光で見た僕は、思わず息をのむ。指の二か所の皮膚が裂け、血がにじんでいたのである。

ホームズが語る


 「──ただの“空気みたいな話”じゃないんだよ」
 ホームズは薄く笑って言った。「むしろ、拳を砕くくらいには“実体”がある。……ところで、奥さんは在宅かい?」

 「いや、旅行で留守にしてるよ」

 「ほう。それじゃあ、君は一人なんだね?」

 「まあ、そうだな」

 「それなら話が早い。……ワトソン、ちょっと一週間ばかり、僕と一緒にヨーロッパ大陸へ逃避行しないか?」

 「どこへ?」

 「どこでもいいさ。僕にとっては全部同じだよ」

 このやり取りには、どうにも奇妙なものがあった。
 ホームズが“目的のない休暇”なんて取るはずがないし、彼の青白くやつれた顔つきは、神経が極限まで張りつめていることを物語っていた。僕が疑問を抱いたのを察したのだろう。ホームズは指先を合わせ、肘を膝に乗せた姿勢のまま、静かに語り始めた。

 「ワトソン、君は“モリアーティ教授”という名を聞いたことがあるかい?」

 「いや、ないな」

 「そこがすごいところなんだよ!」
 ホームズは声を上げた。「あの男はロンドン中に影響を及ぼしているのに、誰もその名を知らない。だからこそ、犯罪史の頂点に立っているんだ。……ワトソン、真面目な話だ。もし僕があの男を倒し、社会を奴から解放できたなら、僕の探偵としての人生は“頂点”に達したと言っていい。そしてその後は、もっと穏やかな生活に移ってもいいと思っている」

 彼は少し肩を落とし、続けた。

 「最近、スカンジナビア王室やフランス共和国の案件を片付けたおかげで、僕はしばらく静かに暮らせるだけの地位を得た。化学研究に没頭する生活も悪くない。……だが、それでも僕は落ち着いて椅子に座っていられないんだ。あんな男──モリアーティ教授のような怪物が、ロンドンの街をのうのうと歩いていると思うとね」

 「……で、その男は何をしたんだ?」

 「彼の経歴は実に異色だよ。良家の出で、教育も一流。しかも、生まれつき数学の才能が桁外れだった。二十一歳のときには“二項定理”についての論文を書き、それがヨーロッパ中で評判になった。その功績で地方大学の数学教授の椅子を手に入れ、誰もが輝かしい未来を期待していた」

 ホームズはそこで一度、深く息を吐いた。

 「だが、あの男には“血筋”に由来する悪魔的な傾向があった。犯罪者としての素質が、彼の天才的な頭脳によって増幅され、より危険なものになってしまったんだ。大学界隈では黒い噂が絶えず、ついには教授職を辞めざるを得なくなった。ロンドンに降りてきて“軍人向けの家庭教師”として身を立てたが……世間が知っているのはここまでだ。今から話すのは、僕が独自に突き止めたことだよ」

 ホームズは身を乗り出した。

 「ワトソン、君も知っているだろう。ロンドンの“上級犯罪界隈”を僕ほど知っている者はいない。長年、僕はずっと感じていたんだ──犯罪者の背後に、法を妨げ、悪事を守る“巨大な組織力”があると。偽造、強盗、殺人……さまざまな事件で、僕はその“力”の存在を感じ取ってきた。僕が関わらなかった未解決事件の多くにも、その影があった」

 「そして、ついにその“糸口”をつかんだ。何重にも巧妙に隠された道をたどり続け、千の迷路を抜けた先で、僕は一人の男に行き着いた──数学界で名を馳せた、元教授モリアーティだ」

 ホームズの声は低く、しかし確信に満ちていた。

 「ワトソン、あの男は“犯罪界のナポレオン”だ。この街で起きる悪事の半分、そして“未発覚の悪事”のほとんどを組織している。天才で、哲学者で、抽象思考の達人。頭脳は一級品だ。彼は蜘蛛の巣の中心に座る蜘蛛のように、じっと動かずにいるが、その巣は千の糸を張り巡らせていて、どの糸が震えても即座に察知する。自分では手を下さない。ただ計画するだけだ。だが、彼の手下は多く、そして完璧に組織されている」

 「何か犯罪を起こす必要があるとしよう。書類の盗難でも、家の荒らしでも、人間の“排除”でも──合図が教授に届けば、すべてが計画され、実行される。手下が捕まることはある。だがその場合は、保釈金も弁護士もすぐに手配される。中心にいる“本体”は決して捕まらない。疑われることすらない。……これが僕が突き止め、全力で暴こうとしてきた組織だ」

 ホームズは拳を握りしめた。

 「だが、教授はあまりにも巧妙に守りを固めていて、どうやっても法廷で有罪にできる証拠が手に入らなかった。君も僕の能力を知っているだろう、ワトソン。それでも三か月かけて、僕はついに“自分と同等の頭脳を持つ敵”に出会ったと認めざるを得なかった。彼の犯罪には戦慄したが、その技量には心底感嘆したよ」

 「だが、ついに奴は一度──ほんの小さな、しかし致命的な“ミス”を犯した。僕がすぐそばまで迫っていたときにね。そこから僕は一気に網を編み上げ、今や閉じる寸前だ。三日後──つまり次の月曜日には、教授と主要メンバー全員が警察の手に落ちる。世紀最大の裁判が始まり、四十件以上の謎が解決し、奴ら全員に“縄”がかかるだろう。だが、少しでも早まれば、最後の瞬間に逃げられる可能性がある」

 ホームズは目を細めた。

 「本来なら、モリアーティに気づかれずにここまで来たかった。だが、奴は狡猾すぎた。僕が仕掛ける一手一手を見抜き、何度も逃げようとした。だがそのたびに、僕が先回りした。……ワトソン、もしこの“静かな戦い”の詳細を記録できたなら、探偵史上もっとも華麗な攻防として語り継がれるだろう。僕はこれまでにない高みに達し、そしてこれまでにないほど追い詰められた。奴は深く切り込んできたが、僕はさらに深く切り返した」

 「そして今朝、最後の手順が完了した。あとは三日待つだけで決着がつく。僕は部屋でそのことを考えていた。……そのときだ。扉が開き、モリアーティ教授が僕の前に立っていたんだ」

モリアーティ教授




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