海軍条約文書事件
THE NAVAL TREATY
「失われた文書は、愛と陰謀の狭間に」

●あらすじ
若き外交官パーシー・フェルプスが外務省で重要文書を扱う任務を受けた直後、その書類の盗難事件に巻き込まれる。名誉と将来を失いかねない窮地に立たされた彼は、友人ワトソンと共に探偵シャーロック・ホームズへ助けを求める。献身的に看病する婚約者アニー・ハリソンや彼女の兄ジョセフも関わり、屋敷を舞台に奇妙な出来事が続発。複雑な人間関係と謎めいた状況の中、ホームズは冷静な推理でわなを仕掛け真相へ迫っていく。
『ストランド・マガジン』1893年10月号・11月号初出
●主な登場人物
- シャーロック・ホームズ ― 冷静な推理で事件の真相を追う名探偵。
- ジョン・ワトソン ― ホームズの友人で医師、語り手として事件を見守る。
- パーシー・フェルプス ― ワトソンの旧友で外交官。重要文書の盗難事件に巻き込ま- れる依頼人。
- タンジー夫妻 外務省の守衛の夫婦。妻は掃除などを手伝っている。
- アニー・ハリソン ― フェルプスの婚約者、献身的に彼を看病する女性。
- ジョセフ・ハリソン ― アニーの兄、フェルプスの屋敷に滞在する青年。
- ホールドハースト卿 ― フェルプスの伯父で外務大臣、事件の背景に関わる人物。
- フォーブス ― 警察の若い刑事。事件捜査に関わる。
- ハドソン夫人 ― ベイカー街221Bの家政婦、ホームズとワトソンの生活を支える。
第1章 「外交官の試練は突然に」
僕が結婚した直後の七月は、シャーロック・ホームズと共に過ごした三つの事件によって忘れられないものとなった。そのとき僕は彼の手法を間近で学ぶ機会を得たのだ。僕の手帳には「第二の汚点事件」「海軍条約文書事件」「疲れた船長事件」と題して記録されている。最初の事件は王国の有力な家々を巻き込み、あまりに重大すぎて長い間公表できないだろう。だがホームズの分析力の価値をこれほど鮮明に示した事件は他にない。僕はいまでも、ホームズがパリ警察のデュビュク氏やダンツィヒの専門家ヴァルトバウム博士に真相を説明した面談のほぼ逐語的な記録を持っている。彼らは枝葉末節に力を費やしていたのだ。だがこの話が安全に語られるのは新世紀になってからだろう。そこで僕は次の事件に移ることにする。これも一時は国家的な重要性を帯び、いくつもの特異な出来事に彩られていた。僕の学生時代、同じ年頃の少年パーシー・フェルプスと親しくしていた。彼は僕より二学年上だったが、抜群に優秀で、学校の賞を総なめにした。最後には奨学金を勝ち取り、ケンブリッジでさらに輝かしい経歴を積んだ。彼は家柄も立派で、子供のころから母の兄が大物政治家ホールドハースト卿だと皆知っていた。だが学校ではその派手な血筋は役に立たず、むしろ僕らは面白がって彼を追い回し、クリケットのバットで脛を叩いたりしたものだ。けれど社会に出てからは違った。彼の能力と人脈によって外務省で良い地位を得たと聞いたが、その後はすっかり忘れていた。ところが、次の手紙で彼の存在を思い出すことになる。
親愛なるワトソン君へ
久しくご無沙汰しております。君はきっと覚えているでしょう、「オタマジャクシ」と呼ばれていたフェルプスを。君が三年生の頃、私が五年生だった時のことです。伯父の尽力により外務省に良い任官を得て、信頼と名誉ある立場にありましたが、突然の事件により私の経歴は打ち砕かれてしまいました。
その出来事の詳細をここで書き記すことは控えます。もし君が私の願いを聞き入れてくれるなら、直接お話しすることになるでしょう。私は九週間に及ぶ脳熱からようやく回復したばかりで、まだ非常に弱っております。そこでお願いがあります。君のご友人であるホームズ氏をぜひこちらへお連れいただけないでしょうか。事件について彼のご意見を伺いたいのです。役所の人々は「これ以上できることはない」と申しておりますが、私はどうしても彼の見解を知りたいのです。できるだけ早くお越しいただければ幸いです。今の私には一分一秒が耐え難いほど長く感じられるのです。
これまでご相談を差し上げなかったのは、彼の才能を軽んじていたからではなく、ショックを受けて以来、ずっとまともに考える力を失っていたからです。今はようやく落ち着きを取り戻しましたが、再び倒れるのを恐れて深く考えすぎないようにしています。まだ筆を取る力もなく、こうして口述で書いている次第です。どうか、ホームズ氏をお連れください。
旧友
パーシー・フェルプス

ホームズは脇のテーブルに腰かけ、ガウン姿のまま化学実験に没頭していた。大きく湾曲したレトルトがブンゼンバーナーの青白い炎の上で激しく沸騰し、蒸留された液滴が二リットルのメスシリンダーに次々と凝縮していく。僕が部屋に入っても、彼はほとんど顔を上げず、実験が重要であることを悟った僕は黙って安楽椅子に腰を下ろし、待つことにした。ホームズは瓶から瓶へとピペットで液を取り出し、最後に試験管をテーブルへ持ってきた。右手にはリトマス試験紙を握っている。
「ちょうどいい時に来たな、ワトソン」
ホームズは言った。「この紙が青のままなら問題なし。赤に変われば、人の命がかかっている」
彼がリトマス試験紙を試験管に浸すと、瞬時に鈍く汚れた赤へと染まった。
「ふむ、やはりな!」と声を上げる。「すぐに君の用件に応じよう、ワトソン。タバコはペルシャのスリッパにある」
ホームズは机に向かい、数通の電報を走り書きしてボーイに渡すと、向かいの椅子にどさりと腰を下ろし、長い痩せた脚を抱え込んだ。
「ありふれた小さな殺人事件さ」ホームズは肩をすくめる。「だが君はもっと面白いものを持ってきたんだろう? 犯罪界の嵐を呼ぶ鳥、ワトソン。さて、何だ?」
僕はフェルプスの手紙を差し出した。ホームズは集中して読み込む。
「情報はほとんどないな」彼は手紙を返しながら言った。
「ほとんど皆無だ」
「だが筆跡が面白い」
「でも本人の字じゃない」
「その通り。女性の字だ」
「いや、男の字だろ!」僕は思わず叫んだ。
「いや、女性だ。そして並外れた人物だ。依頼人が善か悪かは別として、特異な性格の人物と密接に関わっていると分かるだけでも、調査の始まりとしては価値がある。もう僕はこの事件に興味を持った。準備ができているならすぐウォーキングへ行こう。外交官と、彼の手紙を口述筆記している女性に会うんだ」
僕らは幸運にもウォータールー駅から早い列車に乗れ、1時間足らずでウォーキングの松林とヒースに囲まれた地に着いた。ブライアブレイは駅から数分歩いた広大な敷地に建つ大きな邸宅だった。名刺を渡すと、優雅に飾られた応接間へ案内され、ほどなくして恰幅の良い男が現れ、にこやかに迎えてくれた。年齢は三十より四十に近いだろうが、赤らんだ頬と陽気な瞳のせいで、まだ悪戯好きの少年のような印象を与えた。
「お越しくださって本当に嬉しいです」彼は僕らの手を熱心に握った。「パーシーは朝からあなた方をお待ちしていました。ああ、気の毒な奴で、藁にもすがる思いなんです。両親は口にするだけで辛いので、私が代わりにお会いするよう頼まれました」
「まだ詳しい内容は伺っておりません」ホームズが軽く言った。「あなたはご家族ではないようですね」
男は驚いた顔をしたが、すぐに下を見て笑い出した。
「僕のロケットに“J H”のモノグラムが見えたんでしょう。ちょっとした推理かと思いましたよ。僕の名はジョセフ・ハリソン。パーシーは妹のアニーと結婚する予定なので、義理の親族になるわけです。妹は二か月間、彼の看病を手足のようにしてきました。すぐにでも会いに行きましょう。彼は待ちきれないでしょうから」
案内された部屋は応接間と同じ階にあり、居間兼寝室として整えられ、隅々に花が飾られていた。窓辺のソファには青ざめてやつれた青年が横たわり、庭の豊かな香りと夏の柔らかな空気が流れ込んでいた。その傍らには女性が座っていて、僕らが入ると立ち上がった。