シャーロック・ホームズ:新訳リブート

Sherlock Holmes: Rebooted Classics

— 現代の日本語でよみがえるホームズの物語 —

技師の親指

THE ENGINEER’S THUMB

「高額報酬"闇"バイトの悲劇」

第5章 朝焼けの真実

 どれくらい気を失っていたのかは分かりません。かなり長い時間だったと思います。月は沈み、明るい朝が始まっていました。服は露でびしょ濡れになっていて、コートの袖は親指の傷から流れた血で染まっていました。

 その痛みで、夜の出来事が一気に思い出され、僕はすぐに立ち上がりました。まだ追っ手から逃げ切れていないかもしれないという不安がありました。

 でも、周囲を見渡して驚きました。屋敷も庭も見当たらなかったのです。僕は街道沿いの生け垣の角に倒れていたようで、少し下ったところに長い建物がありました。近づいてみると、それは昨夜僕が降り立った駅そのものでした。

 手の傷がなければ、あの恐ろしい数時間はすべて悪夢だったと思ってしまったかもしれません。

 ぼんやりしたまま駅に入り、朝の列車について尋ねました。レディング行きの列車が一時間以内に出るとのことでした。昨夜と同じ駅員が勤務していて、僕は彼にスターク大佐という人物を知っているか尋ねましたが、聞いたことがないと言われました。

 昨夜、馬車が僕を迎えに来ていたのを見たかと聞いても、見ていないとのこと。近くに警察署はあるかと聞くと、三マイルほど離れた場所にあると言われました。

 僕は弱っていて、そこまで歩くのは無理でした。なので、町に戻ってから警察に話すことに決めました。

 町に着いたのは六時過ぎで、まず傷の手当てを受けました。その後、ワトソン先生が親切にも僕をこちらまで連れてきてくださったのです。事件の詳細はすべてお話ししましたので、あとは先生方のご指示に従います。


 僕とホームズは、しばらく無言で座っていた。ハザリー氏の語った出来事は、あまりにも異常で、言葉を挟む余地がなかった。

 やがてホームズが棚から分厚いスクラップ帳を取り出し、新聞の切り抜きをめくり始めた。

 「これは、あなたにとって興味深い広告です」
 ホームズが言った。「ちょうど一年前、すべての新聞に載ったものです。聞いてください——
 『今月九日、失踪。ジェレマイア・ヘイリング氏、二十六歳、水圧技師。夜十時に下宿を出たまま消息不明。服装は——』などなど。ふむ、これが大佐が機械の点検を最後に依頼した時期でしょうね」

 「なんてことだ!」
 ハザリー氏が叫んだ。「じゃあ、あの女性の言葉の意味が分かります!」

 「間違いありません」
 ホームズが頷いた。「大佐は冷静で、しかも極めて危険な人物です。自分の計画の邪魔になるものは、海賊のように一人残らず排除するつもりだったのでしょう。さて、今は一刻も惜しい。もし体調が大丈夫なら、スコットランド・ヤードに向かいましょう。アイフォードへ行く準備のためです」


 三時間後、我々はレディング発の列車に乗って、バークシャーの小さな村へ向かっていた。メンバーはホームズ、水圧技師のハザリー氏、スコットランド・ヤードのブラッドストリート警部、私服警官、そして僕である。

 警部は座席に郡の地図を広げ、コンパスでアイフォードを中心に円を描いていた。

 「これでよし」
 警部が言った。「この円は村から半径十マイルです。目的の場所はこの線上のどこかでしょう。十マイルと言いましたね?」

 「はい、しっかり一時間は走りました」

 「気を失ったあなたを、またそこまで戻したと?」

 「そうだと思います。運ばれているような記憶も、ぼんやりとあります」

 「でも、なぜ庭で気絶していたあなたを見逃したのかが分からない」
 僕が言った。「女性の懇願に心を動かされたのかもしれない」

 「いや、それは考えにくいですね。あんな冷酷な顔は見たことがありません」

 「まあ、すぐに分かりますよ」
 ブラッドストリート警部が言った。「円は描きました。あとは、この円のどこに奴らが潜んでいるかです」

 「僕には、だいたい見当がついています」
 ホームズが静かに言った。

 「本当ですか!」
 警部が驚いた。「じゃあ、みんなで予想してみましょう。私は南だと思います。あっちは人が少ない」

 「僕は東です」
 ハザリー氏が言った。

 「俺は西だな」
 私服警官が言った。「静かな村がいくつかある」

 「僕は北ですね。丘がないし、馬車が登った記憶もないそうですし」

 「はは、見事に四方に分かれましたね」
 警部が笑った。「さて、誰に決定権を渡しましょうか?」

 「みんな間違ってますよ」

 「でも、全員が間違ってるなんてことは……」

 「ええ、ありえます」
 ホームズは円の中心に指を置いた。「ここです。ここに奴らがいます」

 「でも、十二マイルも走ったんですよ?」
 ハザリー氏が驚いた。

 「往復で六マイルずつです。簡単なことです。あなた自身、馬が元気だったと言いましたよね。キツイ道を十二マイル走った馬が、そんなに艶やかでいられるはずがありません」

 「なるほど、巧妙な手ですね」
 警部がうなずいた。「この連中の正体は、もう疑いようがありません」

 「ええ、間違いありません」
 ホームズが言った。「彼らは大規模なコイン偽造団で、あの機械を使って銀の代用品を作っていたんです」

 「前から、巧妙な偽造団が活動しているのは分かっていました」
 警部が言った。「ハーフクラウン硬貨を何千枚も作っていた。レディングまでは追跡できたんですが、そこから先は足取りが消えてしまって……でも、今回の幸運で、ついに尻尾を掴めたと思いますよ」

 だが、警部の期待は外れた。あの犯罪者たちは、ついに法の裁きを受けることはなかった。
 アイフォード駅に到着した我々の目に飛び込んできたのは、木立の向こうから立ち上る巨大な煙の柱だった。

火事


 「火事だって?」
 ホームに降りて列車が再び走り出したとき、ブラッドストリート警部が駅長に声をかけた。

 「ええ、警部さん!」
 駅長は帽子を押さえながら答えた。

 「いつから燃えてる?」

 「夜中からだって聞いてます。でも、今はもう手がつけられない状態で、建物全体が炎に包まれてます」

 「誰の家だ?」

 「ベッチャー先生の家です」

 「ちょっと聞きたいんですが」
 ハザリー氏が割って入った。「そのベッチャー先生って、ドイツ人で、すごく痩せてて、鼻が鋭く尖ってる人じゃありませんか?」

 駅長は大笑いした。

 「いやいや、先生は生粋のイギリス人ですよ。この辺じゃ一番腹回りが立派な方です。でも、今は外国人の患者さんが滞在してるみたいでしてね。あの人にはバークシャー産の牛肉でも食わせてやったほうがいいってくらい、ひょろっとしてますよ」

 駅長の話が終わるより早く、我々は全員、火事の現場へと急ぎ足で向かっていた。

 道は緩やかな丘を越え、白く塗られた大きな建物が見えてきた。窓や隙間から炎が噴き出し、庭では三台の消防車が必死に放水していたが、火の勢いは止まらなかった。

 「ここです!」
 ハザリー氏が興奮した声で叫んだ。「あの砂利道、あのバラの茂み、僕が倒れていた場所です。そして、あの二つ目の窓が、僕が飛び降りたところです!」

 「まあ、少なくとも復讐は果たしたようですね」
 ホームズが静かに言った。「あのオイルランプがプレス機に潰されたとき、木の壁に火がついたのは間違いないでしょう。奴らはあなたを追うのに夢中で、火のことには気づかなかったんでしょうが。さて、昨夜の“友人たち”がこの群衆の中に紛れていないか、目を光らせておいてください。もっとも、今ごろは百マイル以上離れてるかもしれませんが」

 ホームズの懸念は的中した。あの美しい女性も、陰気なドイツ人も、無口なイギリス人も、それ以降一度も目撃されたことはなかった。

 その朝早く、農夫がレディング方面へ猛スピードで走る荷馬車を見たという証言があった。荷台には数人の人影と、かなり大きな箱が積まれていたらしい。だが、それ以降、彼らの痕跡は完全に消え、ホームズの推理力をもってしても、居場所を突き止めることはできなかった。

 消防隊は屋敷の内部の奇妙な構造に困惑し、さらに三階の窓辺で新しく切断された人間の親指を発見して、騒然となった。

 夕方近くになってようやく火は鎮まり、屋根は崩れ落ち、建物は完全に焼け落ちた。残ったのは、ねじれたシリンダーと鉄の配管だけで、ハザリー氏が命をかけて調査した機械の痕跡は、ほとんど残っていなかった。

 別棟からは大量のニッケルと錫が見つかったが、硬貨は一枚も発見されなかった。あの荷馬車の箱の中身が、それだったのかもしれない。

 ハザリー氏が庭から意識を取り戻した場所まで運ばれた経緯は、永遠に謎のままだったかもしれない。だが、柔らかい土が語っていた。彼は二人によって運ばれたようで、片方は非常に小さな足、もう片方は異常に大きな足跡を残していた。おそらく、あの無口なイギリス人が、相棒ほど残忍ではなく、女性と協力して彼を安全な場所まで運んだのだろう。

 ロンドンへ戻る列車に乗り込んだとき、ハザリー氏は苦笑しながら言った。

 「いやぁ……僕にとっては、なんとも派手な事件でしたね。親指は失うし、五十ギニーの報酬もパーです。で、結局僕が得たものって、何だったんでしょう?」

 「経験ですよ」
 ホームズは笑いながら答えた。「間接的には、価値あるものになるかもしれません。言葉にして語れば、あなたはこれからずっと“話の面白い男”として評判になりますよ」

「技師の親指」終り  次は「独身の貴族」です。


🏙 登場地名・施設一覧

地名・施設名 概要・地図リンク
London Paddington Station(ロンドン・パディントン駅) ロンドン西部にある主要ターミナル駅。ヴィクター・ハサリーが深夜列車に乗る出発地として登場。ホームズ作品でもしばしば舞台となる。  地図を見る
Baker Street 221B(ベイカー街221B) ホームズとワトソンが暮らす有名な住所。依頼人ハサリーが血まみれの手を抱えて訪れる。  地図を見る
Reading(レディング) イングランド南部バークシャー州の町。ハサリーが列車を乗り換える地点であり、物語後半の捜査の拠点となる。  地図を見る
Berkshire(バークシャー州) イングランド南部の州で、レディングを含む。物語の舞台である「アイフォード村」もこの州内に位置する設定。  地図を見る
Eyford(アイフォード) バークシャー州の片田舎にあるとされる小村。ハサリーが深夜に訪れ、事件に巻き込まれる舞台となる。
(架空)
Colonel Lysander Stark’s House(スターク大佐の屋敷) アイフォード近郊にある謎めいた屋敷。内部には奇妙な機械が設置され、物語の核心となる場所。
(架空)
Hydraulic Press Room(水圧機室) スタークの屋敷内にある部屋。巨大な水圧プレスが据えられ、恐るべき事件が起こる。
(架空)
Bedroom with Moonlight Window(月明かりの寝室) ハサリーが逃走を図る際に飛び出す窓のある部屋。女性が彼を導く象徴的な場面の舞台。
(架空)
Scotland Yard(スコットランド・ヤード) ロンドン警視庁本部。ホームズがブラッドストリート警部とともに調査を進める。  地図を見る
Eyford Station(アイフォード駅) 深夜の小さな無人駅。ハサリーが降り立つと、謎の男が待っている。物語の不穏な始まりの地。
(架空)


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