ボスコム谷の惨劇
The Boscombe Valley Mystery
「父を殺したのは僕なのか?霧の谷に眠る過去」
第5章 沈黙する探偵
「ジョン・ターナー様です」ホテルの給仕がドアを開け、訪問者を部屋へ案内した。

髪は灰色に混じり、髭は乱れていて、眉は太く垂れ下がっていた。それらが彼に威厳と力強さを与えていたが、顔色は灰白色で、唇と鼻の端には青みが差していた。
ひと目見ただけで、彼が重い病に蝕まれていることは明らかだった。
「どうぞ、ソファにおかけください」
ホームズは優しく声をかけた。
「僕の手紙は届きましたか?」
「ええ、ロッジの管理人が持ってきました。あなたがここで会いたいと……騒ぎにならないようにとのことでしたね」
「屋敷に行けば、噂になると思いまして」
「それで、なぜ私に会いたかったのですか?」
彼はホームズを見つめた。その目には疲れと絶望が宿っていて、すでに答えを知っているようだった。
「ええ」
ホームズは言葉ではなく、その視線に答えた。
「マッカーシーのことはすべて知っています」
老人は顔を両手で覆い、呻いた。
「神よ……でも、若者を傷つけるつもりはなかった。陪審で彼に不利になるなら、必ず真実を話すつもりでした。誓います」
「そう言っていただけて、安心しました」
ホームズは厳かに答えた。
「今すぐ話すこともできます。でも……娘のことを思うと……彼女の心が壊れてしまう。僕が逮捕されたと知ったら、きっと……」
「そうならないかもしれません」
ホームズが言った。
「え……?」
「僕は公的な捜査官ではありません。ここに来たのは、あなたの娘さんの依頼によるものです。僕は彼女のために動いています。ただ、若いマッカーシー君は必ず救わなければならない」
「私はもう長くない人間です」
ターナー氏は静かに言った。
「糖尿病を患っていて、医者にはあと1ヶ月ももたないかもしれないと言われています。だからこそ、牢屋ではなく、自分の家で死にたい」
ホームズは立ち上がり、テーブルに向かって座った。ペンを手に取り、紙束を広げる。
「真実を話してください。僕が記録します。あなたが署名し、ワトソンが証人になります。これは、マッカーシー君を救う最後の手段として使います。必要なとき以外は、絶対に公開しません」
「それでいい」
老人は頷いた。
「私が陪審まで生きていられるかもわからない。だから、もうどうでもいい。でも、アリスには衝撃を与えたくない。さて、話しましょう。長い話ですが、語るのは短くて済みます」
「君たちは、あのマッカーシーという男を知らない。あいつは悪魔だった。神よ、どうか君たちがあんな男に捕まることがありませんように。あいつは20年も僕の人生を握り潰してきた。
最初にあいつに取り込まれた経緯を話そう。
1860年代初め、オーストラリアの金鉱での話だ。私は若くて血気盛んで、無鉄砲だった。悪い仲間とつるみ、酒に溺れ、採掘では運もなく、ついには山賊まがいの生活に身を投じた。6人の仲間と一緒に、駅を襲ったり、金鉱への道で馬車を止めたりしていた。私は“バララットのブラック・ジャック”と呼ばれていて、今でも植民地では“バララット団”として記憶されている。
ある日、バララットからメルボルンへ金輸送の馬車が来るという情報を得て、待ち伏せして襲撃した。護衛は6人、我々も6人。激しい戦いだったが、最初の一斉射撃で4人の騎兵を倒した。だが、我々も3人が命を落とした。
私は馬車の御者に銃を突きつけた。それが、あのマッカーシーだった。あの時、撃っておけばよかったと今でも思う。だが、見逃した。あいつの目は僕の顔をじっと見て、忘れまいとしていた。
金を奪って、我々は裕福になり、疑われることなくイギリスへ渡った。仲間とは別れ、私は静かで真っ当な人生を送ろうと決めた。ちょうど売りに出ていたこの土地を買い、金の使い道として善行を積もうとした。結婚もした。妻は早くに亡くなったが、アリスという娘を授かった。彼女が赤ん坊だった頃から、その小さな手が私を正しい道へ導いてくれた。僕は過去を償うために、真面目に生きてきた。
すべてが順調だった。あいつが現れるまでは。
ある日、投資の件でロンドンに行ったとき、レジント・ストリートでボロボロの姿のマッカーシーに出くわした。
『やあ、ジャック』
あいつは僕の腕を叩いて言った。
『家族みたいにしてくれよ。俺と息子の二人分、面倒見てくれ。断るなら……イギリスは法の国だ。警官なんてすぐ呼べるぜ』
それから、あいつらは西部に押しかけてきて、僕の一番良い土地に居座った。家賃も払わず、ずっとだ。僕には安らぎも忘却もなかった。どこへ行っても、あいつの狡猾な笑顔が背後にいた。
アリスが成長するにつれ、状況はさらに悪化した。あいつは、私が警察よりも娘に過去を知られることを恐れていると気づいた。だから、欲しいものは何でも要求してきた。土地も金も家も、すべて渡した。
そして、ついに要求されたのが——アリスだった。
息子も娘も成長し、私の健康が弱っていることを知っていたあいつは、息子に全財産を継がせる。それがあいつの狙いだった、娘と息子を結婚させれば、すべて手に入ると踏んだんだ。
でも、私は断った。あいつの血を、私の家系に混ぜるわけにはいかなかった。息子本人に嫌悪はなかったが、あいつの血が流れている。それだけで、私には受け入れられなかった。
私は強く拒んだ。マッカーシーは脅してきた。私は挑んだ。最悪の事態になっても構わないと。
そして、話し合いの場として、池のほとりを選んだ。ちょうど私たちの家の中間地点だった。
現地に着くと、あいつは息子と話していた。僕は木の陰に隠れて、葉巻を吸いながら待った。だが、あいつの話す内容を聞いているうちに、私の中の黒い感情が一気に噴き出した。

娘の気持ちなんて一切考えず、まるで通りの女でも扱うように、息子に結婚を迫っていた。私と、私の大切なものすべてが、こんな男の手の中にあると思うと……気が狂いそうになった。
この絆を断ち切れないのか? 私はもう長くない。死は近い。でも、記憶と娘だけは守りたかった。
だから、やったんだ、ホームズさん。私は、あいつを打ち倒した。毒蛇を踏み潰すように、何のためらいもなく。
あいつの叫び声で息子が戻ってきたが、私はすでに森の中へ逃げていた。けれど、逃げる途中でマントを落としてしまい、それを取りに戻らざるを得なかった。
これが、すべての真実です、先生方」

「僕があなたを裁く立場ではありません」
ホームズは静かに言った。
「ただ願うのは、僕たちが人を殺すような誘惑に晒されないことです」
「私もそう願います、先生……それで、あなたはどうされるおつもりですか?」
「あなたの健康状態を考慮して、何もしません。あなた自身も、もうすぐこの世を去ることを理解されている。僕はこの供述書を保管します。もしマッカーシー君が有罪になりそうなら、最後の手段として提出します。そうでなければ、誰の目にも触れさせません。あなたが生きていても、亡くなっていても、秘密は僕たちの間で守られます」
「……それなら、もう言うことはありません」
老人は厳かに言った。
「あなた方が僕に与えてくれた安らぎは、きっとあなた方自身の死の床でも、心を軽くしてくれるでしょう」
彼は巨体を震わせながら、よろよろと部屋を後にした。
しばらく沈黙が続いたあと、ホームズがぽつりと呟いた。
「……神よ、なぜ運命は、こんなにも無力な人間に残酷な仕打ちをするのか。こういう事件に出会うたび、バクスター(17世紀の聖職者)の言葉を思い出すんだ。“神のおぼしめしがなければ、そこにいたのはシャーロック・ホームズだった”」
ジェームズ・マッカーシーは、ホームズがまとめた数々の異議申し立てによって、陪審で無罪となった。
ジョン・ターナー氏は、僕たちとの面会から7ヶ月後に亡くなった。
そして今、息子と娘は、過去に覆い隠された黒い雲を知らぬまま、穏やかに幸せな日々を歩み始めている——。
🏙 登場地名・施設一覧
| 名称 | 備考 |
|---|---|
| ボスコム谷 | 事件の舞台となる田園地帯。ロス近郊がモデルとされる架空地名。地図を見る |
| ボスコム池 | 被害者の遺体が発見された森と葦に囲まれた小さな湖。架空地名のためリンクなし。 |
| ハザリー農場 | マッカーシー親子の住居。事件当日の出発地点。架空地名のためリンクなし。 |
| ターナー邸 | アリスと父ジョンが暮らす邸宅。事件の鍵を握る場所。架空地名のためリンクなし。 |
| ロス | ホームズとワトソンが訪れた町。捜査拠点となる。地図を見る |
| ヘレフォード | ジェームズが拘留された町。裁判所がある。地図を見る |
| ブリストル | ジェームズが事件前に滞在していた都市。過去の秘密が関係する。地図を見る |
| バララット | ターナーとマッカーシーが過去に活動していた豪州の金鉱地。地図を見る |