シャーロック・ホームズ:新訳リブート

Sherlock Holmes: Rebooted Classics

— 現代の日本語でよみがえるホームズの物語 —

這う男

THE CREEPING MAN

―九日ごとに“獣”になる教授―

第2章 九日ごとに訪れる“影”

 ベネット氏の明るい顔が、暗い影に覆われた。
 「一昨日の夜のことです。午前二時ごろ、僕は眠れずにいたんですが、廊下から鈍い音が聞こえたんです。扉を開けて覗くと……説明しておきますが、教授の寝室は廊下の突き当たりにあります」

 「日付は?」
 ホームズが口を挟んだ。

 ベネット氏は明らかに不快そうだった。
 「先ほど申し上げた通り、一昨日――九月四日です」

 ホームズは満足げにうなずいた。
 「続けてください」

 「教授は階段へ行くには、必ず僕の部屋の前を通ります。……あれは、本当に恐ろしい光景でした。僕は神経の強いほうだと思っていますが、あれには震えました。廊下は暗く、途中の窓から差す光だけが頼りでした。その光の中に、何かが近づいてきたんです。黒くて、低く身をかがめた“何か”が。
 そして光の中に出た瞬間、それが教授だとわかりました。
 彼は……這っていたんです、ホームズさん。這って。
 四つん這い、というより、手と足をついて、顔を手の間に沈めるような姿勢で。それなのに動きは妙に滑らかでした。僕はあまりの衝撃で固まり、教授が僕の部屋の前に来るまで声も出ませんでした。ようやく『お手伝いしましょうか』と声をかけたら、教授は跳ね起き、ひどい罵り言葉を吐き捨てて、僕を押しのけるように階段を降りていきました。
 その後、一時間ほど待ちましたが戻らず、部屋に戻ったのは夜明け近くになってからだったと思います」

階段を降りる


 「さてワトソン、これをどう見る?」
 ホームズは、珍しい標本でも見せる病理学者のような顔つきで僕に尋ねた。

 「ぎっくり腰……かもしれないな。ひどい発作だと、ああいう歩き方になることがあるし、気分も最悪になる」
 僕は医者としての経験から答えた。

 「いいね、ワトソン。君はいつも僕らを地面に引き戻してくれる。ただ、ぎっくり腰は却下だ。教授は一瞬で直立したんだろう?」

 「ええ、健康そのものです」
 ベネット氏が言った。「むしろ、ここ数年で一番元気なくらいです。でも事実は事実なんです、ホームズさん。警察に相談できるような話でもありませんし、僕たちは完全に行き詰まっています。それに、どういうわけか破滅に向かって流されているような気がして……イーディス――プレズベリ嬢も、もう黙って待っていられないと言っています」

 「確かに、奇妙で示唆に富んだ事件だ。ワトソン、君はどう思う?」

 「医者として言うなら、精神科医の領分だと思うよ。恋愛で精神の均衡を崩し、国外旅行で気持ちを断ち切ろうとした。手紙や箱は、別の私的な取引――借金とか株券とか――そういうものかもしれない」

 「そしてウルフハウンドは、その財政取引が気に入らなかった、と。いやいや、ワトソン、それでは説明がつかない。僕としては――」

 ホームズが何を言おうとしたのか、永遠にわからない。
 ちょうどその時、扉が開き、若い女性が案内されて入ってきたからだ。

 彼女の姿を見た瞬間、ベネット氏は「イーディス!」と叫び、椅子を蹴るように立ち上がって、両手を差し出した。彼女も同じように手を伸ばしていた。

 「イーディス、どうしたんだい? 何かあったのか?」

 「あなたを追って来たの。ジャック……ひとりでいるのが怖くてたまらなかったのよ!」

 「ホームズさん、この方が先ほど話した婚約者です」

 「まあ、ワトソン。僕たちもそろそろそうだろうと思っていたよね」
 ホームズは微笑んだ。「プレズベリ嬢、何か新しい出来事があって、僕たちに知らせるべきだと判断されたんですね?」

 新しい訪問者――典型的な英国美人で、明るく整った顔立ちの女性は、ホームズに微笑み返し、ベネット氏の隣に腰を下ろした。

 「ベネットさんがホテルを出たと聞いて、きっとここだと思ったんです。もちろん、あなたに相談すると言っていましたから。でも……ホームズさん、お父さまを助ける方法はないんですか?」

 「希望はあります、プレズベリ嬢。ただ、まだ霧の中です。あなたのお話が、何か新しい光を当ててくれるかもしれません」

 「昨夜のことなんです、ホームズさん。昨日一日、お父さまはとても奇妙でした。時々、自分が何をしているのか覚えていないようなんです。まるで夢の中にいるみたいで……昨日は特にひどかった。あれは、私の知っている父ではありませんでした。姿形は父なのに、中身が違うんです」

 「何があったのか、聞かせてください」

 「夜中に、犬が激しく吠える声で目が覚めました。かわいそうなロイは、今は馬屋のそばに鎖でつながれているんです。私はいつも寝室の扉に鍵をかけています。ジャック――ベネットさんが言ったように、私たちは皆、何か恐ろしいことが迫っている気がして……
 私の部屋は三階で、ちょうどブラインドが上がっていて、外は月明かりがとても明るかったんです。窓の光を見つめながら、ロイの狂ったような吠え声を聞いていたら……信じられないものを見ました。

 お父さまの顔が、窓の外にあったんです。

窓の外に教授


 ホームズさん、驚きと恐怖で死ぬかと思いました。顔がガラスに押しつけられていて、片手は窓を押し上げようとしているように見えました。もし窓が開いていたら、私は正気を失っていたと思います。
 幻覚なんかじゃありません、ホームズさん。どうか誤解しないでください。二十秒くらい、私は動けずにその顔を見つめていました。
 それから顔は消えました。でも私は……ベッドから飛び起きて窓を確かめることができませんでした。朝まで震えて横になっていました。
 朝食のとき、お父さまは刺々しく、怒りっぽい態度で、夜の出来事には一言も触れませんでした。私も言えませんでした。でも口実を作ってロンドンへ来て……今ここにいます」



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