シャーロック・ホームズ:新訳リブート

Sherlock Holmes: Rebooted Classics

— 現代の日本語でよみがえるホームズの物語 —

マザリンの宝石

THE MAZARIN STONE

―盗まれた秘宝とホームズの奪還作戦―

第3章 窓辺の人影と仕掛けられた罠

 こうして、ビリーがシルヴィウス伯爵を案内してきたとき、部屋は空っぽだった。

 伯爵は大柄で浅黒く、鷲のくちばしのような長い鼻と、残忍そうな薄い唇を黒い口髭が覆っていた。派手なネクタイと宝石のピン、指輪がギラギラ光り、成金趣味が全開だ。

 扉が閉まると、伯爵は罠を疑うように鋭い目で部屋を見回した。そして窓際の椅子に座る“ホームズの頭”を見つけた瞬間、ビクリと体を震わせた。

 最初は驚愕。
 次に、目の奥におぞましい“希望”が灯った。

 奴は周囲を確認し、誰もいないと分かると、そっと忍び足で近づいた。太いステッキを半分持ち上げ、飛びかかる寸前――

 寝室の扉から、冷たく皮肉な声が響いた。

シルヴィウス伯爵


 「壊さないでくださいよ、伯爵。壊したら困ります」

 伯爵は飛び退き、顔を引きつらせた。
 ステッキを再び振り上げかけたが、ホームズの灰色の鋭い目と嘲るような笑みを見て、腕を下ろした。

 「よくできてるだろう?」
 ホームズは人形に近づいた。
 「フランスのモデラー、タヴェルニエの作品だ。蝋細工なら、君の友人ストラウベンジーの空気銃に匹敵する腕前だよ」

 「空気銃? 何の話だ?」

 「帽子とステッキをそこに置いてください。ありがとう。どうぞ座って。……ああ、拳銃はしまったままでいい。座り心地は悪いだろうがね。ちょうど君と話がしたかったところなんだ」

 伯爵は眉を吊り上げ、険しい顔で睨んだ。

 「俺も話があって来たんだ、ホームズ。さっきお前を殴るつもりだったのは否定しない」

 ホームズは机の端に腰を乗せた。

 「まあ、そんなところだろうと思ったよ。で、どうしてそんな個人的な“ご挨拶”を?」

 「お前が俺を苛立たせるような真似ばかりするからだ。俺の後をつける手下まで放ちやがって」

 「手下? そんなものいないよ」

 「嘘をつけ。俺はそいつらを逆に尾行させたんだ。お前だけができると思うなよ」

 「シルヴィウス伯爵、細かいことだが……僕に“ミスター”をつけて呼んでくれないか。仕事柄、犯罪者たちと馴れ馴れしくなるのは避けたいんでね。例外を作ると面倒だ」

 「……分かったよ、ミスター・ホームズ」

 「よろしい。で、僕の“手下”という話だが、それは誤解だよ」

 伯爵は鼻で笑った。

 「他の奴らだって、お前と同じくらい観察できるんだよ。昨日は“年季の入ったスポーツマン”がいたし、今日は“年寄りの女”だ。どっちも一日中、俺を見張ってた」

 「おや、それは光栄ですね。絞首刑の前夜、バロン・ドーソンが言ってましたよ――『ホームズのせいで、舞台は名優を一人失った』って。あなたも僕の小さな変装劇を褒めてくださるんですか?」

 「まさか……あれ、お前本人だったのか?」

 ホームズは肩をすくめた。

 「ほら、あそこにあるだろう。ミノリーズであなたが丁寧に拾って渡してくれた日傘だよ。あれで僕を疑い始めたんだろう?」

 「もし知ってたら……お前は二度と――」

 「この慎ましい我が家に戻れなかった、ってことだね。分かってたよ。でもまあ、あなたは知らなかった。だから今こうして話してる」

 伯爵の眉間の皺はさらに深くなり、目つきはますます険しくなった。

 「つまり、お前の手下じゃなくて、お前自身が俺をつけ回してたってわけだな。認めたな。……なんでそんな真似を?」

 「伯爵、あなたは昔、アルジェリアでライオンを撃ってたよね?」

 「それがどうした」

 「なんで撃った?」

 「決まってるだろ。狩りの楽しみ、興奮、危険……!」

 「ついでに、害獣駆除ってところか?」

 「その通りだ」

 「僕の理由も、それで全部説明できるよ」

 伯爵はガタンと立ち上がり、反射的に腰の後ろへ手を伸ばした。

 「座ってください、伯爵。落ち着いて。……もう一つ、もっと実用的な理由がある。僕はあの黄色いダイヤが欲しいんだ」

 伯爵は椅子に深くもたれ、口元に邪悪な笑みを浮かべた。

 「ほう、そう来るか」

 「あなたも分かってたはずだ。僕があなたを追っていた理由はそれだ。今夜ここに来た本当の目的は、僕がどこまで知っているか、そして僕を消す必要がどれほどあるかを確かめるためだろう。あなたの立場からすれば、僕を消すのは“絶対に必要”だ。なぜなら、僕は全部知っている。……ただ一つ、あなたがこれから教えてくれることを除いてね」

 「ほう? その“欠けてる一つ”ってのは何だ?」

 「王冠のダイヤが今どこにあるか、だよ」

 伯爵は鋭くホームズを見た。

 「それを知りたいのか? どうして俺が知ってると思う?」

 「あなたは知ってる。そして教えることになる」

 「へえ?」

 「伯爵、僕をはったりで揺さぶれると思わないでください」

 ホームズの目は細く鋭く光り、まるで鋼の刃のようだった。
 「あなたの心の奥まで透けて見える。まるでガラス越しだ」

 「なら、ダイヤがどこにあるかも見えてるんだろうな?」

 ホームズは楽しげに手を叩き、指を突きつけた。

 「ほら、やっぱり知ってるじゃないか。今、自分で認めたよ」

 「何も認めてない」

 「伯爵、話が分かるなら交渉できる。分からないなら……痛い目を見る」

 伯爵は天井を見上げ、鼻で笑った。

 「はったりはどっちだよ」

 ホームズはチェスの名手のようにじっと伯爵を見つめ、それから机の引き出しを開け、分厚いノートを取り出した。

 「このノートに何が書いてあるか知ってますか?」

 「知るかよ」

 「あなたのことですよ」

 「俺の?」

 「そう。あなたの“危険で下劣な人生”の全記録だ」

 「ふざけるな、ホームズ!」
 伯爵の目が燃え上がった。
 「俺の忍耐にも限界があるぞ!」

 「全部ここにある。ハロルド夫人の死の真相――あなたにブライマーの土地を遺したあの老婦人だ。あなたはそれをすぐに賭博で失った」

 「妄想だ!」

 「ミニー・ワレンダー嬢の人生の全記録もある」

 「ちっ……そんなもんで俺を追い詰められると思うな」

 「まだまだある。たとえば、一八九二年二月十三日、リビエラ行きの豪華列車での強盗事件。それから同じ年のクレディ・リヨネ銀行の偽造小切手」

 「……それは違うな」

 「じゃあ他は全部当たりってことだね。伯爵、あなたはカードの勝負師だろう? 相手が全部の切り札を持ってるときは、手札を投げ出すのが一番だ」

 「その話が、ダイヤと何の関係がある?」

 「焦らないでください、伯爵。僕のペースで話します。あなたに対しては山ほど証拠がある。だが何より、あなたとその用心棒サム・マートンが“王冠のダイヤ事件”に関わっているという確実な証拠がある」

 「ほう?」

 「あなたをホワイトホールへ運んだ御者、連れ帰った御者、現場近くであなたを見た守衛、そしてダイヤを切り分けるのを拒んだアイキー・サンダース。アイキーは全部しゃべった。もう終わりだ」

 伯爵の額の血管が浮き上がり、毛深い手は怒りで震えていた。
 言葉を出そうとしても、声にならない。

 「これが僕の“手札”だ。全部テーブルに出した。だが一枚だけ足りない。キング・オブ・ダイヤ――石のありかだ」

 「絶対に教えん」

 「そうですか? 伯爵、よく考えてください。あなたは二十年は刑務所だ。サム・マートンも同じ。ダイヤは何の役にも立たない。だが、もし渡すなら……僕は罪を見逃す。僕らが欲しいのは石であって、あなたじゃない。石を渡せば、今後まっとうに生きる限り、僕はあなたを自由にしておく。次に何かやらかしたら……それで終わりだがね。今回の依頼は“石の回収”であって、あなたの逮捕じゃない」

 「断ったら?」

 「そのときは……残念ながら、石じゃなくてあなたを差し出すことになる」

 そのとき、ベルに応じてビリーが入ってきた。

 「伯爵、この話にはあなたの友人サムも必要でしょう。彼の利益も関わってますからね。ビリー、外に大きくて怖そうな男がいるだろう。ここへ連れてきて」

 「もし来なかったら?」

 「暴力はだめだよ、ビリー。乱暴に扱わないで。『伯爵が呼んでる』と言えば必ず来る」

 ビリーが出ていくと、伯爵が低い声で聞いた。

 「……で、これから何をするつもりだ?」

 「さっきまで僕の友人ワトソンがここにいたんだ。彼には“網にサメとフナがかかってる”って言ったけど……今ちょうど網を引き上げてるところでね。二匹まとめて上がってくる」

 伯爵は椅子から立ち上がり、手を背中に回した。
 ホームズはガウンのポケットから、何かを半分だけ覗かせていた。

 「お前、ベッドで死ぬことはないだろうな、ホームズ」

 「僕もつくづくそう思うよ。でも大した問題じゃない。伯爵、あなたの“最期”は横じゃなくて縦――つまり絞首台の方が可能性高いんじゃないかな。まあ、未来の話は暗くなるだけだ。今はもっと楽しい“現在”を味わおうじゃないか」

 その瞬間、伯爵の目に獣のような光が宿った。
 ホームズは逆に、背筋が伸びて影が長くなったように見えた。

 「拳銃を触っても無駄ですよ」
 ホームズは静かに言った。
 「あなたは撃てない。僕が時間をあげたとしてもね。拳銃はうるさくて汚い。あなたは空気銃の方が得意でしょう? ……おっと、あなたの“素晴らしい相棒”の足音が聞こえる。どうも、ミスター・マートン。外は退屈でしたか?」

 ドアに立ったのは、がっしりした体つきの若いボクサーだった。
 顔は平たく、頑固そうで、どこか鈍い。
 ホームズの軽妙な態度に戸惑い、敵意を感じつつも、どう反応していいか分からない様子だ。

 彼は助けを求めるように伯爵へ向き直った。

 「なあ伯爵、今度は何のゲームだ? こいつは何がしたい? 何が起きてんだ?」
 声は低くて荒っぽい。

 伯爵は肩をすくめた。
 代わりにホームズが答えた。

 「簡単に言えばね、ミスター・マートン。もう“詰み”だよ」

 ボクサーはまだ伯爵に向かって言った。

 「こいつ、ふざけてんのか? 俺は今、笑える気分じゃねえぞ」

マートン


 「だろうね」
 ホームズは淡々と続けた。
 「でもね、夕方が進むにつれて、もっと笑えなくなると思うよ。さて、シルヴィウス伯爵。僕は忙しいんだ。時間は無駄にできない。これから寝室に行くので、どうぞご自由に。僕がいない間に、友人に状況を説明してあげてください。僕はホフマンの“舟歌”をバイオリンで弾いてます。五分後に戻って、最終的な答えを聞きます。選択肢は分かってますね? あなた方を捕まえるか、石をもらうか」

 ホームズはバイオリンを手に取り、寝室へ消えた。
 すぐに、あの物悲しい旋律が扉越しに流れ始めた。



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