※コース概要
1980年、後楽園の参加者は2707名。1問目はヘリコプターから投下された。○と思えば外野に残り、×と思えば内野へ移動。結局100名が成田空港へ。
成田はアミダとかクイズとか案があったが結局ジャンケンに。さらに敗者復活戦があって一人が機内へ。サイパンで機内クイズの最下位と席を交代しました。
グァムでは初のドロンコクイズ。ハワイではおなじみ船上ダイビングクイズ。サンフランシスコではゲストを招いての三択インスピレーションクイズ。ソルトレイクシティでは塩の砂漠でバラマキクイズが。
イエローストーンへ来たのは8名、間歇泉の前での早押しクイズ。コロラドスプリングスでは氷の上での駆けっこおりクイズ。アルバカーキではインディアンと馬に乗っての早駆けクイズ。ニューオリンズではフットボール場でのタッチダウンクイズ。ここで唯一の男性が落ち、残るは女性4名に。プエルトリコでは早押し通過クイズ。そしてニューヨーク決戦。
賞品は組み立て式の飛行機だった。
■雲のじゅうたんが実現しました
ごぶさたしております。山口由美です。86年に結婚して姓が変わりました。テレビをごらんになっていた皆様は、上田姓のほうがなじみがおありでしょうし、あるいはハチマキ娘というニックネームのほうが聞こえがいいかもしれませんね。
あのころは、父の経営する不動産会社でお茶くみをしておりましたが、今は日本航空のアシスタントパーサーとして雲の上で働いております。フライトの都合で日本にいないことも多く、そういうわけで、もうウルトラクイズに参加できる機会も少ないでしょうが、毎年の放送は楽しみで、ビデオで拝見させていただいております。今の仕事に就きましたのも、実はウルトラクイズが深い縁になっているのです。そのことについては後ほど述べさせていただくことにして、まず当時の私の気持ちや、旅についてお話しさせていただきたいと思います。
■アメリカに魅せられて
今でこそ月の半分は海外で生活しており、ニューヨークも何度も行っておりますが、最初の海外旅行はウルトラクイズに出る1年前、79年のことでした。アメリカへ行ったのですが、見るもの聞くものすべてが新鮮で、すっかりアメリカの魅力にとりつかれてしまいました。そんな折り、第3回アメリカ横断ウルトラクイズを見ました。私が行ったアメリカで、一生懸命闘っている皆さんにたいへん感激して、思わず両親に「来年は私が出るから」と言ってしまったのです。両親は娘の気まぐれと思ったのでしょう、ただ笑っておりました。
1年が過ぎ、ウルトラクイズの季節が始まりました。今度は私も後楽園の人工芝の上に立っています。つい1週間前、野球を見にきた後楽園の、あの人工芝の上に自分がいるんだ、というだけで胸が熱くなってきました。もともとクイズなんてテレビを見るだけで、出たことはありません。だから○×クイズもたいへん難しく、自信を持って答えたという問題は2〜3問しかありませんでした。でも、そこは女のカンのみせどころ。○へ×へと走っているうちに、いつのまにか合格者の中に入ってしまいました。
後楽園を通過したことに、私以上に驚いて、また喜んでくれたのが両親や友人たちです。
「それはすごい、ジャンケンだけは勝ってこい」と声援を受けましたが、誰も私がニューヨークまで行って、そして優勝するとは思っていなかったでしょう。
■運命を変えたハチマキ
成田空港での第2次予選は例年どおりジャンケンでした。でも、あれほど私の運命を変えたジャンケンは、生涯2度とないと今でも思っています。
私のお相手は横田昇さんという方でした。ジョギングをするような軽装で、頭に「必勝」と文字の入った立派なハチマキをしてらしたので、つい「あのハチマキ欲しい」と言ってしまったのです。横田さんはすぐにハチマキをくださいました。そして、私が横田さんのハチマキをして、ジャンケンをすることになったのです。
もう、私はブルブル震えていました。1回勝っただけで興奮してしまいました。3回勝って飛行機に乗れるとなったら、思わずしゃがみこんでしまったほど緊張していたんです。あとで振り返れば、私はハチマキと共に運までいただいたのでした。
■緊張の連続
機内のペーパークイズは本当に大変でした。時間がなくなって、最後の方は1番だか2番だか、全部同じ番号に印をつけたように覚えています。それでもなんとか通過。それからは実にいろいろな形のクイズ形式に挑戦することになりました。
グァムでは、初のドロンコクイズが行われました。第2回クイズ王北川さんや、第3回でマイアミまで行った高山さんまでもがドロンコになっていくので、怖くて怖くて。死刑執行を待つ死刑囚の心境でした。
いよいよ私の番が回ってきたとき、あのハチマキを取り出して締めました。へんな問題でよくわからなかったのですが、懸命に走りました。あのドロンコゲートまでの砂浜の長かったこと。正解したときは、本当にホッとしました。それからはどんなクイズでもハチマキを締めて挑戦しました。ウルトラハットを使う早押しクイズのときも、帽子にハチマキを締めて挑戦したほどです。そして福留さんからはハチマキ娘という、うれしいニックネームまで頂戴したのです。
その後も、いろんな趣向のクイズが行われました。コロラドスプリングスのアイスアリーナで、氷の上で裸足でクイズをしたときは、足の感覚がほとんどなくなりました。
アルバカーキでは、インディアンのおじさんと馬に乗り、答えがわかったらおじさんの肩をたたいて馬を走らせてもらい、前方のバーをハンマーでたたいて答えるクイズをしました。なにしろ馬に乗るなんて初めてです。リハーサルでは馬から落とされてしまい、恐い思いをしました。それに早押しボタンに相当するバーが、右側にあるんです。左利きの私は慣れない右手でハンマーを持ったため、せっかく走ったのに何度も空振りがありました。でも、あのインディアンのおじさんは、とってもやさしかった。馬から落ちたのは私がいけないのに、とっても申し訳けない顔をして、手を貸してくれたのです。
■本場のジャズを聞く
一緒に旅をしているスタッフの皆さんは、アメリカは何度もいらしていますし、近畿日本ツーリストの小出さんは海外旅行の大ベテランですから、普通ではなかなか行けないところへもご案内していただけました。たとえばニューオリンズのジャズクラブ。あんな暗い裏町のお店へは、今でも怖くて行けないでしょう。外から見てもなんのお店だか、倉庫だかちっともわからないんです。
そのジャズクラブ、木造の教室みたいで、飲物などのサービスは一切なし。全員が黒人のバンドでした。それにトロンボーンを吹く人も、サックスを吹く人も、どこか身体に不自由なところを持っている人たちでした。ピアニストは枯枝のように痩せ細ったおばあさん。その今にも折れそうな指先から奏でられるジャズの響き。心に染みる音色で、私たちは聞き惚れてしまいました。人生の哀歌というのでしょうか、明日は次の土地でクイズをしなければならない、私たちの境遇ともだぶって、しみじみとした夜を過ごさせていただきました。
■女の闘いに
準決勝地のプエルトリコまで来たのは、4人すべて女性でした。もちろんウルトラクイズ始まって以来のことです。それまで私たちはクイズに精一杯で、Tシャツとか、ジーンズとか、そんな服ばかり着ていました。おしゃれの余裕なんてとてもありませんでしたから。
でも、女4人が並んでそんな服装ではみっともないと、みんなステキな服を買って、バッチリお化粧して挑戦。女4人の通過クイズになりました。
こうなったら女の意地で負けられません。でも、2度も通過席へ行ったにもかかわらず、2度とも失敗してしまいました。再び通過席へ行くには、もう3回早押しクイズに答えなくてはなりません。
そのとき私は、高校時代にやっていたフェンシングを思い浮かべました。毎日毎日のハードな練習。とてもきつかった合宿。一瞬に賭けた試合。人間のギリギリの限界を、フェンシングを通して経験していたのです。インターハイで優勝した精神力が甦ってきました。
それからは、クイズがフェンシングの試合でした。福留さんの問題のポイントがきたらサッと突く。あの、インターハイに優勝したときの感覚でクイズに向かったのです。そして三ポイントとって通過席へ。通過クイズにようやく答えて、福留さんから「おめでとう」と大きな声で言われたときは、思わず涙してしまいました。
■ニューヨークでボーイフレンドの名を
私の次に通過クイズに答えたのは、歳も近くてすっかり仲良しになった松澤典子ちゃんでした。実は典子ちゃんは体調を崩してしまって、プエルトリコではクイズ会場まで車椅子で運ばれたくらいなんです。それなのにニューヨーク行きを決めて、その精神力にはさすがの私も感服しました。
ニューヨークはあいにく小雨が降り、せっかく着たドレスの上にダウンジャケットをはおったくらい寒い日でした。
パンナムビルでは、最後の力を振り絞って優勝することができました。その時は率直に言って、自分で自分自身をほめてあげたいような気持ちになりました。よくここまで来れた、そして勝った、よくやったと思いました。
私は、不覚にも福留さんにのせられて、パンナムビルの屋上でボーイフレンドの名を力一杯叫んでしまいました。
「山口く〜ん、勝ったの私、すごいでしょーっ」
ええ、そうなんです、山口君って今の私の旦那様。
スタッフのご好意で、パンナムビル屋上から両親に国際電話をすることができました。母もまさか私が優勝したなんて信じられないようで、ただただビックリするだけでした。
■夢のような賞品をいただいて
優勝賞品は飛行機でした。一人乗りですが、エンジンもちゃんとあって離陸から着陸までできる、本当の飛行機。ロサンゼルス郊外の砂漠で、大空を飛ぶその飛行機を見て「やった!」と思いました。でもそこはウルトラクイズ。実は、プラスティックモデルみたいに部品がバラバラで、全部組み立てなければ飛ばないんです。その部品もトラック1台分はあるたいへんな数で、私が作ることなど到底不可能です。
けれどある日、浜松の人からお電話をいただきました。「テレビを見ていたが、ぜひあの飛行機を組み立てたい」という内容でした。このままほおっておいても粗大ゴミになるのはわかりきっていましたので、ぜひにとお願いしました。たいへん親切な方で、途中経過を何度も何度もご報告してくださいました。できあがったら、飛ぶところを絶対見に行くんだ、と期待していたのですが、残念ながら組み立てに失敗し、飛べない飛行機になってしまったのです。
でも空を飛ぶ夢は、別のところで本当に実現してしまいました。ある日、父が1冊の航空雑誌を持ち帰りました。それには私がいただいたのと同じ組み立て式飛行機が紹介されていたからですが、何気なくパラパラとその雑誌を読んでいると、日本航空のスチュワーデス募集広告が目に止まったのです。
そこで軽い気持ちで応募しましたところ、面接官の方がテレビを見ててくださったようで話がはずみ、とんとん拍子でスチュワーデスになってしまったのです。ウルトラクイズはフェンシングのファイトで頑張りましたが、今度はウルトラクイズのファイトが面接官に認められたようです。あるいは、これがウルトラクイズの本当の賞品だったのかもしれません。
あの手作り飛行機で大空をかけめぐる夢は実現できませんでしたが、ジャンボジェットで世界をかけめぐる私。本当に幸せです。今でもフライトをしておりますと、お客様から「ウルトラクイズに優勝した人でしょう」と声をかけられることもしばしば。「ええ、これが賞品の飛行機です」なんてお答えしますけれど。
高校時代、フェンシングのインターハイで優勝したことはずっしりと重く、私を消極的にしてしまったようです。でも、ウルトラクイズに優勝したことは、私を前向きにさせてくれました。人生のターニングポイントになったウルトラクイズ。そしてあのハチマキ。とっても、とっても感謝しています。
では皆さん、大空で、そしてニューヨークでお目にかかれる日を、楽しみにお待ちしております。
知力・体力・時の運。ウルトラクイズの三大コンセプトだが、時の運とくれば占いが気になる。クイズ王は人並み以上に運がいいと言えるのだろうが、それでは当時の運勢はどうだったのだろう。当然勝運に恵まれていたという結果がでなければならないが、果たしていかに? 今たいへんなブームになっている大殺界で占ってみた。
| 氏名 | 生年月日 | 優勝年月 | 殺界 |
|---|---|---|---|
| 松尾清三 | 1938年11月5日 | 1977年9月 | 減退(大殺界) |
| 北川宣浩 | 1954年8月6日 | 1978年9月 | 種子 |
| 宗田利八郎 | 1949年12月26日 | 1979年9月 | 減退(大殺界) |
| 山口由美 | 1958年9月20日 | 1980年9月 | 立花 |
| 真木法男 | 1957年5月25日 | 1981年9月 | 立花 |
| 高橋直樹 | 1953年8月3日 | 1982年9月 | 緑生 |
| 横田 尚 | 1958年2月18日 | 1983年9月 | 減退(大殺界) |
| 石橋史行 | 1957年8月23日 | 1984年9月 | 減退(大殺界) |
| 金子孝雄 | 1964年12月9日 | 1985年9月 | 乱気(中殺界) |
| 森田敬和 | 1960年6月29日 | 1986年10月 | 再会 |
大殺界とは、人間は誰でも生まれたときから12年周期でいい時機と悪い時機とが繰り返され、悪い時機、すなわち大殺界のときには何をやってもダメ、というもの。
しかし10人のクイズ王のうち4人もが大殺界なのに優勝している。さらに1人、中殺界がいる。つまり10人中5人が悪い時機に入っているのに、あのウルトラクイズに優勝しているのだ。この結果に対するコメントは祟りが怖いので差し控えるが、皆さんはどう思われますか。
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