アメリカ横断ウルトラクイズ
クイズ王の本

歴代クイズ王が語るウルトラクイズ必勝法
「知力・体力・時の運」次のクイズ王はあなた!かも、しれない?

クイズ王の会/篇
©北川宣浩・森田敬和 1987
ヨセミテ国立公園

大空に咲いた私の夢………第4回/山口由美(2)

アメリカに魅せられて

 今でこそ月の半分は海外で生活しており、ニューヨークも何度も行っておりますが、最初の海外旅行はウルトラクイズに出る1年前、79年のことでした。アメリカへ行ったのですが、見るもの聞くものすべてが新鮮で、すっかりアメリカの魅力にとりつかれてしまいました。そんな折り、第3回アメリカ横断ウルトラクイズを見ました。私が行ったアメリカで、一生懸命闘っている皆さんにたいへん感激して、思わず両親に「来年は私が出るから」と言ってしまったのです。両親は娘の気まぐれと思ったのでしょう、ただ笑っておりました。

 1年が過ぎ、ウルトラクイズの季節が始まりました。今度は私も後楽園の人工芝の上に立っています。つい1週間前、野球を見にきた後楽園の、あの人工芝の上に自分がいるんだ、というだけで胸が熱くなってきました。もともとクイズなんてテレビを見るだけで、出たことはありません。だから○×クイズもたいへん難しく、自信を持って答えたという問題は2〜3問しかありませんでした。でも、そこは女のカンのみせどころ。○へ×へと走っているうちに、いつのまにか合格者の中に入ってしまいました。

 後楽園を通過したことに、私以上に驚いて、また喜んでくれたのが両親や友人たちです。

「それはすごい、ジャンケンだけは勝ってこい」と声援を受けましたが、誰も私がニューヨークまで行って、そして優勝するとは思っていなかったでしょう。

運命を変えたハチマキ

 成田空港での第2次予選は例年どおりジャンケンでした。でも、あれほど私の運命を変えたジャンケンは、生涯2度とないと今でも思っています。

 私のお相手は横田昇さんという方でした。ジョギングをするような軽装で、頭に「必勝」と文字の入った立派なハチマキをしてらしたので、つい「あのハチマキ欲しい」と言ってしまったのです。横田さんはすぐにハチマキをくださいました。そして、私が横田さんのハチマキをして、ジャンケンをすることになったのです。

 もう、私はブルブル震えていました。1回勝っただけで興奮してしまいました。3回勝って飛行機に乗れるとなったら、思わずしゃがみこんでしまったほど緊張していたんです。あとで振り返れば、私はハチマキと共に運までいただいたのでした。

緊張の連続

 機内のペーパークイズは本当に大変でした。時間がなくなって、最後の方は1番だか2番だか、全部同じ番号に印をつけたように覚えています。それでもなんとか通過。それからは実にいろいろな形のクイズ形式に挑戦することになりました。

 グァムでは、初のドロンコクイズが行われました。第2回クイズ王北川さんや、第3回でマイアミまで行った高山さんまでもがドロンコになっていくので、怖くて怖くて。死刑執行を待つ死刑囚の心境でした。

 いよいよ私の番が回ってきたとき、あのハチマキを取り出して締めました。へんな問題でよくわからなかったのですが、懸命に走りました。あのドロンコゲートまでの砂浜の長かったこと。正解したときは、本当にホッとしました。それからはどんなクイズでもハチマキを締めて挑戦しました。ウルトラハットを使う早押しクイズのときも、帽子にハチマキを締めて挑戦したほどです。そして福留さんからはハチマキ娘という、うれしいニックネームまで頂戴したのです。

 その後も、いろんな趣向のクイズが行われました。コロラドスプリングスのアイスアリーナで、氷の上で裸足でクイズをしたときは、足の感覚がほとんどなくなりました。

 アルバカーキでは、インディアンのおじさんと馬に乗り、答えがわかったらおじさんの肩をたたいて馬を走らせてもらい、前方のバーをハンマーでたたいて答えるクイズをしました。なにしろ馬に乗るなんて初めてです。リハーサルでは馬から落とされてしまい、恐い思いをしました。それに早押しボタンに相当するバーが、右側にあるんです。左利きの私は慣れない右手でハンマーを持ったため、せっかく走ったのに何度も空振りがありました。でも、あのインディアンのおじさんは、とってもやさしかった。馬から落ちたのは私がいけないのに、とっても申し訳けない顔をして、手を貸してくれたのです。

本場のジャズを聞く

 一緒に旅をしているスタッフの皆さんは、アメリカは何度もいらしていますし、近畿日本ツーリストの小出さんは海外旅行の大ベテランですから、普通ではなかなか行けないところへもご案内していただけました。たとえばニューオリンズのジャズクラブ。あんな暗い裏町のお店へは、今でも怖くて行けないでしょう。外から見てもなんのお店だか、倉庫だかちっともわからないんです。

 そのジャズクラブ、木造の教室みたいで、飲物などのサービスは一切なし。全員が黒人のバンドでした。それにトロンボーンを吹く人も、サックスを吹く人も、どこか身体に不自由なところを持っている人たちでした。ピアニストは枯枝のように痩せ細ったおばあさん。その今にも折れそうな指先から奏でられるジャズの響き。心に染みる音色で、私たちは聞き惚れてしまいました。人生の哀歌というのでしょうか、明日は次の土地でクイズをしなければならない、私たちの境遇ともだぶって、しみじみとした夜を過ごさせていただきました。

 

 

公共の宿

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