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1981年10月、レイルウェイ・ライター種村直樹氏と二人でヨーロッパ旅行をした。フランスに世界一の高速列車TGV(テージェーヴェー)が走り出したので、なんとしても乗りたいと話が合ったのである。ツアーをいろいろ物色したところ、日本旅行のパッケージツアーでTGVに乗るものがあり、これに決めた。日本から添乗員が同行する、四十人ほどのツアーであった。
種村氏がすごいのはここからだった。パッケージツアーの一部だけ参加して、自由行動日はもちろん、観光がついている部分も気に入らないところはパスして、宿までも独自に決めて、ほぼ7割を勝手に回るという案だった。ならば、パッケージでなく個人旅行で申し込めばいいと思うだろうが、拠点ごとの荷物の移動はパッケージツアーの添乗員にしてもらい、行きたいところへは身の回りの荷物だけを持って、まわるのである。
遠慮がちな私は果たしてこのようなことができるのか、いささか疑問に思ったが、種村氏はいとも平気でそうすることにした。

この雑文は千趣会の雑誌デリカ(廃刊)1982年5月号に「北川宣浩はじめての自費旅行 汽車は行く行く想いは残る」として掲載したものを大幅加筆修正したものである。

写真は、ニコンEMでフジのポジフィルムに撮影したものをフィルムスキャナーで電子化した。20年以上前のもので退色や埃が目立ったが、フォトショップを使って修正した。

2003/03/16

イタリアタイトル

■ローマ:カンツォーネディナー
ツアーの開始はローマからであるが、飛行機は未明のスイス・チューリッヒに降り立ち、トランジットとなる。どこの空港でもそうだがトランジットほど退屈なものはない。空港をうろうろしていると、なにやら空港外に出られる窓口があった。半信半疑でパスポートをかざし、外に出ていいかと窓口の老人に聞いたところ、「スイッツランド イズ フリーカントリー」と返事があり、いとも簡単に外に出してくれた。といっても空港敷地内から遠くに行ける時間はなく、チューリッヒの空気を吸っただけだったが。
種村氏は"Switzerland is free country!"がいたく気に入り、手帖にメモした。

乗り継ぎのアリタリア航空でローマに着く。ローマでは30代の日本人男性現地ガイドが付き、その夜のオプショナルツアーのカンツォーネディナーを食べにバスでレストランへ行った。かなり広いシアターレストランで、席はそこそこ埋まっていたが、私たちの席は舞台最前列に用意されており、ガイドが自慢気に席に案内した。たいしてうまくもない食事だったし、おばはんのカンツォーネも決してうまいとは言えなかったが、久しぶりに外国へ来た日本人を騙すにはちょうど手ごろだったろう。客席のあちこちから舞台へ「ブラボ〜」の声がかかる。種村氏は舞台のおばはんに向かって「ブラババ〜」と声援を上げた。

カンツォーネディナー ブラババ〜

■ローマ:市内観光
翌朝からお決まりの市内観光。
かつて西洋建築史の授業で古い建物をいろいろ勉強した?こともあり、ゆっくりと市内の遺跡や名建築を見物したかったのだが、そのようなものはバス車窓から眺めるだけで、まともな写真すら撮れなかった。あとで知ったが、ガイドや旅行会社は客を土産物屋に連れて行かなければ儲からないのである。ベネチアングラスの工房に連れて行かされ、買うまでもなく店内をうろうろしていると、ガイドと添乗員が奥の部屋に入っていったっけ。バスから降りたのは格闘場であったコロッセオ、トレビの泉とスペイン階段くらいだ。
さすがにバチカン市国には行った。ここはクイズによく出る世界最小の国であり、ぜひ行きたかった。訪問国の数も増えるしね。衛兵がかっこよかったが、背の高い白人のスイス人でないとなれないらしい。

トレビの泉と土産屋 バチカン、サンピエトロ大聖堂の衛兵


●2つの時計の秘密
バチカン市国はローマ市の一角にあり、パスポートなしで入国できます。国境だって、サンピエトロ大聖堂の入口の地面に、黄色い線が引いてあったりして、かわいい。
サンピエトロ大聖堂の正面左右には、それぞれ1個ずつ時計が掲げてありますが、よく見ると違う時間を示しています。左側の上あっていますが右のはヘンな時間なのです。
実は右の時計は宗教上の時間を示しているそうで、悪魔をあざむくためだとか。でも、今のイタリアっ子(バチカン子)なら、待ち合わせ時間に遅れた言い訳に使っているかもしれません。
 



私はイタリアはじめ各国の鉄道時刻表が欲しかったため、くだんの現地ガイドに「時刻表」をイタリア語でなんというか聞いたら、そういう趣味嗜好は皆無と見え即答できず、のちほど「タイムブーカン」であると教えられた。直訳すれば「時刻本」なのだろうか。英語の「タイムテーブル=時刻・表」を知っていれば、もう少し現実的なイタリア語を作っただろうが、英語も知らなかったようだ。

■ポンペイ
翌日は自由行動の日で、私たちはあらかじめ用意していたヨーロッパの鉄道乗り放題のユーレールパスを使い、ローマからポンペイへ出かけた。コンパートメントと呼ばれる6人用の個室を二人占めし、明るい日差しの中、南部のポンペイへと向かった。


●ローマの駅弁は見ただけで満腹
ローマ・テルミニ駅は映画「終着駅」でご覧になった方もあるでしょう、ものすごく大きなコンコースのある、ローマの中央駅です。
ポンペイへ行くとき、この駅で駅弁を買いましたが、手さげの紙袋にゴチャゴチャ食べ物が入っているシロモノでした。
コッペパン2コ、大きな鳥肉、生ハム、チーズ、リンゴ丸ごと1コ、ケーキ、ポテトチップ、そしてワイン。約千円しましたが、これを全部食べられるわけがなく、残ったコッペパンやリンゴをそのまま紙袋に入れて、ポンペイの遺跡を歩き回りました。それにしてもイタリア人があれだけの量の食事を昼に食べるのかと思うと……、太り過ぎの国民が多いのが非常によくわかるのであります。
 ローマ・テルミニ駅の駅弁売り場 内容充実の駅弁


国鉄ポンペイ駅からポンペイの遺跡へはやや離れているのでタクシーのお世話になった。いかにも怪しげなタクシーである。しかし種村氏は平気で乗ってしまう。このタクシーはまともで、ちゃんと遺跡入り口まで運んでくれた。
ポンペイは紀元79年にベスビオ火山の噴火によって灰に埋もれてしまった古代都市である。瞬時に灰に閉ざされたおかげで、往時の暮らしぶりをそのまま見ることができる。
ポンペイの遺跡前 発掘されている遺跡の入り口でみやげ売りのおっさんが寄ってくる。世界中どこの観光地でもよくある光景だ。手に持っているのは「羅馬とバチカン」と書かれた案内書で、台の上には同じ案内書が数ヵ国語分揃っているのに感心した。ところがいささか値が高いので「高い!」と日本語で言うと、このおっさんはたちまち値下げした。まさか案内書みたいに数ヵ国語に通じているのではあるまい。観光客の返事など世界中どこでも同じなのだ。「ぼくらはすでにガイドブックを持っている」と、日本で買った日本の出版社のを見せると「これはよくない、こっちのがいい」と怪しげな英語で応酬してきた。噂には聞いていたが、イタリア人はおもろい人種である。「知りもせんくせに、よく言う!」と、案内書は買わなかった。

面白い人は遺跡内部にもいた。ある民家を覗いていると、耳元で「コレハ、イヌノ、モザイク、デス」と謎の日本語が聞こえた。確かに犬のモザイクが床にデザインされている。ちょっと日本語のできるイタリア人が、私たちを日本人と知って案内してくれたのだろうか。種村氏は「確かに犬のモザイクと聞こえたが……」と、空耳なのか幻聴なのかと、のちのちまでいぶかしげだった。

コレハ、イヌノ、モザイク、デス 青年の像とベスビオ火山

ポンペイの遺跡でぜひ見たかったのが「青年の像」であった。これは中学時代の参考書に写真が載っており、私がポンペイを知るきっかけにもなった像である。ベスビオ火山を臨む円柱の庭園の中に青年の像は2000年の時を知らぬように立っていた。

■ナポリ
帰りは出口近くにある私鉄の駅、<Pompei villa de Misteri=秘儀荘駅>からナポリへ出た。夕刻のナポリ駅は帰宅を急ぐ人で混んでいた。せっかくナポリまで来て時間も夕刻だから、景色のきれいなナポリ湾を臨むレストランで食事をしたいと種村氏が提案した。そんな店、あるにはあるのだろうがどうやって行くのだ??。
秘儀荘駅 ナポリへは私鉄で 駅前のタクシー乗り場に並んでいると、私たちを日本人観光客と知った怪しげなおっさんが手招きをしている。二人で無視しているとこっちへやってきた。
結局、二人はナポリ湾を臨むそこそこ高級なレストランの、それも屋外の席に座っていた。ナポリ湾の夜景を見ながらの食事。薄いピッツァに舌つづみを打ち、モノはためしと例ナポリのレストランでのものがあるか、ウェイターにオーダーしてみた。「スパゲッティナポリタン!」。ナポリタンとはナポリ風という意味だから本場にはないと思ったが、なんと出てきました。しかしトマトソースがかかっているもので、日本の、野菜とともにケチャップで炒めたあのナポリタンではなかった。
その後、夜の列車でローマに戻ったが、二人ともコンパートメントで横になって爆睡。ローマ・テルミニ駅では外人客(ってか現地人か)にコンパートメントのドアをノックされてようやく起きる始末。しかしながら盗難とは無縁の二人だった。





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